農民が協力して畠山氏を排除し、
文明17年から約8年間自治した事を何と呼ぶか?
応仁・文明の乱以降も、有
力守護大名の一つである畠山家は、
畠山義就と同長政の権力闘争が続いた。
両畠山の争奪戦により疲弊した
山城国の南部3郡(久世郡・綴喜郡・相楽郡)では、
在所の有力者である国人衆や有力農民が団結し、
文明17年に宇治・平等院に会合した。
両畠山の勢力を追放し
南山城を国人衆の自治の下に置く事に決めた。
これが「山城の国一揆」と呼ばれ、
明応2年までの8年間継続した。