①「池坊家元が代々住職を務める六角堂の寺号」

②「立花の名手として最初に名を挙げ、

  東福寺の僧の日記『碧山日録』に評判が記された人物」

③「室町末期にいけばなを体系化した人物が著した花伝書」

④「2代池坊専好を禁裏の花会に招いた人物」

⑤「茶の湯の隆盛と共に人気となった手軽ないけばなの様   式」を含み、150~200字以内でまとめる。

 

 

 

 

 

 

 

 

池坊は本来、①頂法寺(六角堂)の住職を代々務める僧侶・坊舎の名称である。僧侶の日常の勤めとして、いけばなの源流とされる仏前供花があり、そうした環境下で池坊は花のいけ方を工夫する様になり、華道家元を称する事となった。現在「いけばな」「華道」と呼ばれる文化が成立したのは室町期で、寛正3年、②池坊専慶の花が京中で評判となった事が、東福寺の禅僧・太極の日記『碧山日録』に記されている。続いて16世紀後半には、池坊専応(センノウ)がいけばな理論をまとめた花伝書を著した。これは『池坊③専応口伝』の名で知られ、咲いている花のみならず、枯れた枝にも美しさがあると云う美意識や、いけばなの技術などが書き連ねられている。江戸期になると、④後水尾天皇が2代池坊専好を禁裏に度々招き、公家や門跡も参加する花会を催した。そこでは、大自然の姿を器の上に表現する「立花(リッカ)」がいけられた。寛永6年紫宸殿に49人が立花を並べた花会が特に盛大なものとして記録に残っている。一方、茶の湯の隆盛と共に、手軽にいけられる簡略な花も流行し、自由度の高さから「⑤抛入花(ナゲイレバナ)」とも呼ばれた。池坊はその姿を格調高く整えて、18世紀半ばに「生花(ショウカ)」と呼ばれる様式が成立した。立花に比べて花・枝の数が少なく、類似した花形を持つ新しい流派の登場も相次ぎ、いけばな人口が増加した。

 

・・・まとめると・・・

華道家元の池坊は、六角堂と称される①頂法寺の住職を代々務め、室町中期に②池坊専慶が「立花」の名手として名を挙げた。室町末期には池坊専応が花伝書『③専応口伝』を著し、近世では初代池坊専好が、秀吉に重用され、2代専好は④後水尾天皇に招かれて禁裏の花会を指導して「立華」を大成した。茶の湯の隆盛に伴い手軽な「⑤抛入花」が人気となり、池坊はこれら「生花」の免許を段階的に伝授する家元制度を作り上げた。

 

 

*現在、池坊では2代専好が確立した様式を「立花」と呼び、それ以前の「立て花」と区別している。又、略式として成立した「生花」もあり、これらを総称して「いけばな」と呼んでいる。