①「保元の乱で争った兄」

②「造営した院御所」

③「寵愛され高倉天皇の生母となった人物」

④「編纂した今様歌謡集」

⑤「臨終仏とされる阿弥陀如来像を本尊とする寺院」を含み、150~200字以内でまとめる。

 

 

 

後白河天皇は、保元の乱で同母兄①崇徳上皇と皇統を争い、平清盛・源義朝らの武力で勝利し、保元3年に二条天皇に譲位し上皇となり院政を始めた。永暦元年、七条大路末の東山の麓に自らの御所②法住寺殿を造営した。平清盛の妻・時子の異母妹③平滋子を寵愛し、滋子は高倉天皇を産み建春門院と号し、滋子は法住寺殿に最勝光院を建立している。芸事を好んだ法皇は、遊女や傀儡(クグツ)などの身分の低い芸能者を近くに置き、今様を集めた④『梁塵秘抄』を嘉応元年から編んだ。承安4年には、法住寺殿で大々的に今様合わせが行われた。安元3年に鹿ヶ谷の陰謀で清盛との関係が悪化し、滋子の死で破綻すると、治承3年には清盛によって院政が停止された。同4年、皇子・以仁王の平氏打倒の令旨が全国の源氏に届けられ源氏が各地で蜂起し、文治5年奥州藤原氏の滅亡まで内乱は続く。治承5年高倉上皇に続き清盛が没すると法皇は院政を再開。寿永2年平家が都落ちして源義仲が入洛するが、法皇とは対立し、義仲は法住寺殿を襲撃する。(後白河)法皇は西洞院平業忠を六条殿とし、殿内に⑤長講堂と称する持仏堂を建立し、念持仏の阿弥陀三尊像を祀った。建久3年3/13、法皇は66歳で没する際、臨終仏として長講堂の阿弥陀三尊像を念じた。

 

・・・まとめると・・・

後白河天皇は兄の①崇徳上皇と皇位継承をめぐって保元の乱で争い、勝利して実権を握ると壮大な②法住寺殿と云う院御所を造営した。又、平家から入内した③平滋子を寵愛し、高倉天皇が誕生している。芸能を好み、中でも今様に情熱を傾け歌謡集④『梁塵秘抄』を編纂した。年と共に深い信仰心も示し、自ら創建した⑤長講堂の阿弥陀如来像を臨終仏と定め、穏やかな晩年を過ごした。