①「藩主を務めた藩の名」

②「京都で就任した幕府の役職とその役割」

③「その本陣(宿舎)を置いた場所」

④「容保を篤く信頼した天皇」

⑤「京都で体験した戦い」

を含み、150~200字以内でまとめる。

 

松平容保は美濃の高須藩主・松平義建(ヨシタツ)の子、会津藩主・松平容敬(カタタカ)の養子となり、嘉永5年に①会津藩23万石を襲封(シュウホウ)した。嘉永6年に来航したアメリカ大統領特使ペリーの

開国勧告について「開国はやむなし」と答申した。養父・容敬の代から会津藩は幕府より房総警備を命じられ、国防力の薄い状況を察知していたゆえの答申であったとみられる。文久2年5月に幕政参与となった。文久2年8月、新設の②京都守護職に任命される。藩内には反対の声が高く、藩論分裂の恐れもあったが、同じく新設の政事総裁職に就任した松平慶永(春嶽・前越前藩主)に説得されて守護職就任を受諾した。同年暮れに軍を率いて入京、黒谷の③金戒光明寺を宿舎とし、④孝明天皇の篤い期待を背に②京都の治安維持にあたった。元治元年の⑤禁門の変(蛤御門の変)では、長州藩を京都から追放する戦功を挙げたが、慶応4年の⑤鳥羽・伏見の戦いが勃発すると東へと退く。鶴ヶ城を守って新政府と戦ったが敗北、降伏・開城して会津藩は消滅した。容保は、晩年、日光東照宮の宮司を務めた。

 

・・・まとめると、

 ①会津藩9代藩主である松平容保は、幕末の動乱期、②京都守護職に就任し、会津藩兵1000人を率いて上洛、③金戒(コンカイ)光明寺に本陣を置いた。近藤勇らの新選組などを使い、②京都の治安維持と御所・二条城の警護に務め、公武合体に尽力した。当時の④孝明天皇からその功績を賞賛され、篤く信頼された。「⑤禁門の変(蛤御門の変)」で長州藩を討つが、孝明天皇崩御後、「⑤鳥羽・伏見の戦い」に敗れ江戸へ下る。会津戦争で降伏し、後に日光東照宮の宮司となる。