平安初期、中国・唐に渡り、天台の教えを学んだ最澄は、帰国して天台宗を開いた。天台宗の総本山延暦寺の根本中堂に、最澄自ら刻んだと云う本尊・薬師如来像があり、その前には全ての人々を守り照らすとして最澄が灯して以来1200年を超えて灯り続ける「の法灯」が安置されている。 一方、最澄同様、遣唐使船で唐へ渡った空海は密教を学び帰国後、真言宗を開き、東寺で庶民救済に尽力した。東寺・講堂には空海の手になる「立体曼荼羅」と呼ぶ仏像群が並び、中央に並ぶ五智如来の中心に密教の教主とされる如来が安置される。 さて、円山公園の東に位置し、平安初期に最澄が創建したは、平安末期になると、法然が吉水草庵を営み専修念仏を広めた場所となり、弟子の親鸞もここで念仏の教えを学んだ。その吉水草庵の旧跡のすぐ北隣には法然が開いた浄土宗の総本山・知恩院が広大な寺地を誇り、除夜の鐘で有名な大鐘楼(重文)には重さ約70トンの鐘が吊られている。知恩院の鐘には、大正11年に来日した博士が、鐘を撞かせて、鐘の真下には音の波が相殺し合って音の消える場所がある事を確かめる実験をしたと云う有名なエピソードがある。  鐘は寺院に欠かせないもので、京都には様々な伝説を秘めた鐘があり、建仁寺「陀羅尼の鐘」、六道珍皇寺「迎え鐘」、報恩寺「撞かずの鐘」、そしてには「安珍・清姫ゆかりの鐘」が伝えられている。

 

「日本仏教の母山」と云われる比叡山延暦寺。点在する150もの堂塔からなるこの大寺院は、最澄がこの地で草庵を営み修行した事に始まる。延暦7年最澄はこの草庵の付近に小堂を建て、薬師如来を安置し本尊とした。「一乗止観院(イチジョウシカンイン)」と名付けられたこの小堂が発展して今日の「根本中堂」となる。国宝でもあるこのお堂は、外陣・中陣・内陣からなる構造で、内陣は中陣から見下ろす様になっている。最澄はこのお堂に自ら一刀三礼して刻んだ薬師如来を安置し、その前に灯明を掲げた。この時、最澄は「明(アキ)らけく後の仏のみ世までも 光伝へよ法(ノリ)のともしび」と詠み、このともしびは今に至る1200年以上一度も消えていない事から「⑥不滅の法灯」と呼ばれている。 この時代の僧として最澄と並び著名なのが、真言宗を大成した空海である。京都での拠点は東寺で、現在は真言宗・総本山の一つとなっている。もう一つの寺名「教王護国寺」からも分る様に、東寺は平安遷都の際に王城鎮護を願う寺として建立されたものだった。嵯峨天皇から東寺を託された空海は、目で見える形で密教の教えを「立体曼荼羅」として知られる「羯磨(カツマ)曼荼羅」で表した。21体の仏像によるこの曼荼羅は、中心の五智如来の左右に五大明王と五大菩薩、更にその外側に6体の天部を配し、五智如来の中心には⑦大日如来を安置している。大日如来は密教の教主とされる最高仏で、明王も菩薩も大日如来の化身であるとされる。  最澄は延暦年間に桓武天皇の勅願によって、今の円山公園の東に都鎮めの寺として⑧安養寺を創建する。後に、全ての人々の救済を説いた法然がこの地に吉水草庵を建て、30数年に及ぶ布教活動を始める。法然は、戦乱・天災が続き末世を思わせる世の中で、既存の仏教には一部の有力者の救いでしかない事に気付き、あらゆる人々が平等に救われる道を求めて「南無阿弥陀仏」と唱える専修念仏を見い出す。その教えは民衆のみならず貴族の中にも広がっていくが、他の仏教宗派からの弾圧が強まって、法然は75歳の時に土佐(実際は讃岐)に流される事となる。その後、親鸞の得度の師でもあり、天台座主も務めた慈円が安養寺を復興させる。現在は一遍が開いた時宗の寺となっている。 安養寺の北には浄土宗の総本山・知恩院がある。法然が承安5年にこの地に建てた庵を起源とし、文暦元年に源智(ゲンチ)によって諸堂が整備された。重文の大鐘楼には、京都・方広寺、奈良・東大寺と並ぶ大鐘がある。約70トンと云うあまりの重さと大きさの為、第2次大戦中の梵鐘の供出の際は、運べずに供出を免れたと云う逸話がある。この大鐘には、今一つ逸話があり、鐘の真下に音の波が打ち消し合い相殺する場所がある事を確かめた、⑨アインシュタイン博士の実験エピソードである。 歴史の長い京都の町では、逸話ではなく伝説が残る鐘も多く。その一つ、建仁寺の「陀羅尼の鐘」は建仁寺の開山・栄西(ヨウサイ)が、鴨川の鐘ヶ淵(のち釜ヶ淵)に沈んでいた鐘を引上げたものと云う伝説がある。建仁寺派の六道珍皇寺(チンノウジ)は、小野篁で有名だが、盂蘭盆会に撞く「迎え鐘」は冥土まで響くと云われ、先祖の精霊がその音を聞いて現世に帰ってくると云う。能の演目『道成寺』は「安珍・清姫伝説」を題材としており、僧・安珍に裏切られた清姫が激情のあまり大蛇となり、道成寺の鐘の中に逃げ込んだ安珍を鐘ごと焼いてしまうと云う話で、再鋳された道成寺の鐘は災いを引き寄せると一度打ち捨てられるが、戦国武将・仙石権兵衛により京都に運ばれ、⑩妙満寺で供養・安置されている。