激戦地となった京都御苑

西側の門の名を採り何と呼ばれるか?

 

 

 

文久3年の「8/18の政変」で敗北した長州藩は、

翌元治元年、宮廷守護の役を

奪回するべく軍隊を入京させた。

 

7/19早朝には山﨑・嵯峨・伏見の

3陣地から一斉に御所に進軍、戦闘を開始したが、

幕府・薩摩・会津・桑名・大垣の軍に阻まれ、

敗退して長州へと撤退した。

 

 

この戦いは激戦地の門の名から

蛤御門の変」と呼ばれ京都市街の大部分が焼失した。