①「近衛信尹・松花堂昭乗・光悦3人の能書家の通称」

②「始祖と云われる絵画の流派」

③「角倉素庵とコラボした本の総称」

④「芸術村を建設した地名」

⑤「光悦作で国宝の硯箱の名称」

⑥「光悦・作と伝わる『三巴の庭』がある寺院名」

以上を含み150~200字以内でまとめる。

 

 

本阿弥光悦は、桃山から江戸初期にかけての京都の芸術家である。刀剣の鑑定や研ぎを家業とする本阿弥家の分家に生まれた。家業の他、書・漆芸・陶芸にも優れ、書は近衛信尹(ノブタダ)・松花堂昭乗(ショウジョウ)と共に「①寛永の三筆」と謳われた名手。漆芸では蒔絵を得意とし、「⑤舟橋蒔絵硯箱(国宝)」は代表作として名高い。陶芸では樂家との縁もあり、白樂茶碗「不二山」や「乙御前(オトゴゼン)」などの名作を残した。趣味豊かな教養人として町衆の信頼厚く、近世初期の京都美術工芸界の総合プロデューサーとしても多彩に活動した。光悦・書と俵屋宗達・金銀泥との合作による装飾性豊かな和歌巻などを生み出し「②琳派」の創始者となる一方、豪商・角倉素庵に協力して、『伊勢物語』などを料紙の美しい「③嵯峨本」で刊行した。晩年には家康から洛北・④鷹峯の土地を受領し、各種の工人・匠を集めて芸術村を建設した。日蓮宗に深く帰依し、本阿弥家の菩提寺・⑥本法寺(上京小川寺之内上ル)には自ら作庭した枯山水「三巴の庭」が残る。 

 

以上をまとめると・・・

 本阿弥光悦は、桃山から江戸初期の芸術家で、特に書では「①寛永の三筆」と称される。俵屋宗達と共に「②琳派の祖」とも云われる。光悦の書と宗達の下絵の美しい③嵯峨本を角倉素庵と組んで刊行した。晩年、徳川家康から賜った④鷹峯の地に芸術村を開いた。蒔絵や陶芸にも優れた作品を残し、代表作に「⑤舟橋蒔絵硯箱」、白樂茶碗の「不二山」などがある。熱心な法華の信者であり、⑥本法寺の枯山水「三巴の庭」は光悦作庭と伝えられる。