①桓武に遷都を進言した人物

②平安京の地相を調査した初代造営大夫

③「四神相応」の四神の名称

④遷都後の新たな国名

以上を含み150~200字以内でまとめる。

 

桓武天皇は延暦3年に平城京から長岡京へと遷都した。これは、天武天皇系皇統の都・平城京に対し、新王朝の新都を建設しようとしたからと考えられている。だが、延暦4年には長岡京建設の責任者・藤原種継が暗殺され、その責を問われた皇太子・早良親王が死に追いやられると云う事件が起きる。更に皇后・藤原乙牟漏(オトムロ)や夫人・藤原旅子が若くして世を去り新皇太子・安殿(アテ)親王「後の平城(ヘイゼイ) 天皇」も重い病に伏すなどの不幸が起こり、早良親王の怨霊の祟りが噂された。又、大規模な洪水が起きるなど災害も頻発した。そうした中で、①和気清麻呂は桓武天皇に対し再度の遷都を進言し、その候補地として山背国葛野(カドノ)郡を挙げた。延暦12年、桓武天皇は藤原小黒麻呂(オグロマロ)と紀古佐美(コサミ)を葛野郡に派遣し新京予定地の地相を調査させ、次いで②藤原小黒麻呂を初代造宮大夫(造宮使の長官)に任じて遷都計画を推進させた。新都の地は「四神相応」、つまり都を営むにふさわしい条件を備える地相を有する。「四神」とは、③北の玄武・南の朱雀・東の青竜(セイリョウ)・西の白虎を意味する。延暦13年10/22、桓武天皇は新都に入り、次いで28日に遷都の詔(ミコトノリ)を発布した。更に11/8には新京の所在地「山背国」を「④山城国」に改称すると共に、新たな都を「平安京」と名付けた。

 

以上をまとめると・・・

 桓武天皇は旧来の貴族や仏教勢力を排除し、革新的な政治を行う為、長岡京に遷都した。しかし、直後に旧勢力の陰謀が発覚、親族の不幸や大雨・洪水・流行病などが続き、体制を立て直すため、①和気清麻呂の進言もあって、再び遷都の決意をした。天皇は②藤原小黒麻呂に地相を調査させ、③北・玄武、南・朱雀、東・青竜、西・白虎が配された「四神相応之地」に遷都を断行、新京を「平安京」と命名し、国名は「④山城」と改めた。