(祭神、創建年とその時代背景、
社殿は平安京の何を模したか、
神苑の作庭者名、
6/1・2に行われる行事名)
を含み150~200文字でまとめる。
念祭を企画・運営する協賛会社が発足した。
初代総裁は、有栖川宮熾仁親王、
2代目は小松宮彰仁親王、
会長は近衛篤麿、副会長は佐野常民、
協賛会発足と同時に、
政府主催の第4回内国勧業博覧会の計画が、
会場未定のまま発表された。
1~3回までの勧業博は東京で開催されたが、
奠都1100年紀念祭協賛会を発足させた
京都としては勧業博を京都に誘致し、
紀念祭と併せて景気を煽ろうと云う機運が盛り上がった。
大阪・京都で激しい誘致合戦がなされ、
第4回は京都、第5階を大阪とする事で決着し、
勧業博と奠都紀念祭が継続する形で、
岡崎を会場に開催される。
奠都1100年を紀念して平安神宮が創建された。
初めは平安宮の構想だったが、
計画されるうちに、
桓武天皇を祭神とする正式な神社、
それも社格の髙い官幣大社の平安神宮を建てると決まった。 協賛会の寄付金集めの事業のうち、
歌舞伎のチャリティーショーは大評判だった。
市川団十郎や片岡我当(ガトウ)が弁慶に扮し、
東大寺ならぬ「平安神宮大極殿勧進帳」を読み上げると、
観客は寄付金を握りしめて受台に殺到した。
協賛会の総収入は36万7000円、
内29万6000円は寄付金だった。
勧業博は明治28年4月~7月まで開かれ、
総入場者数は約113万6600人で、
月平均28万人は、
当時の京都市の人口33万9900人に近い。
桓武天皇を祭神に迎えた平安神宮で、
明治28年10/22~24まで、
平安奠都1100年紀念祭と記念式が行われた。
続いて、25日に時代行列が行われ、
時代祭の行列の創始となった。
昭和15年には、
新たに孝明天皇が合祀された。
勧業館の会場の中央を北に進むと、
平安京の大内裏・朝堂院(八省院)を模して
(縮尺5/8)作った応天門と大極殿に突き当たる。
大極殿の背後には、
神宮の本殿が建てられた。
本殿背後の庭園は、
「植治(ウエジ)」こと7代目小川治兵衛
作庭の回遊式庭園である。
毎年6/1・2、
大極殿(拝殿)前に能舞台が仮設され、
「薪能」が演じられる。
以上をまとめると……
平安神宮は、祭神が、桓武天皇と孝明天皇。
社殿は明治28年、
平安奠都1100年紀念祭
及び第4回内国勧業博覧会の紀念殿として
平安京の朝堂院を約八分の五に縮小して建てられ、
ここで平安奠都1100年紀念祭が盛大に挙行された。
神苑は東、中、西、南の四苑からなり、
南苑以外は七代目小川治兵衛(植治・ウエジ)の作庭。
東山を借景に、
紅枝垂桜・花ショウブ・カキツバタが有名である。
6月1日・2日の京都薪能は、
初夏の風物詩となっている。