であった嵯峨院を寺に改めた事に始まる。

境内には中国の洞庭湖を模して造られた

【50】池があり、月の名所として有名である。

 

当地には昔、

嵯峨天皇の離宮の嵯峨院があった。

 

後に皇女・正子(セイシ)内親王(=淳和天皇皇后)が寺に改め、

大覚寺とした。

 

鎌倉期に後嵯峨上皇・亀山上皇・後宇多上皇

の入寺が続いた事で、

いわゆる大覚寺統(南朝)が生まれ、

持明院統(北朝)との間で

皇位と所領の争奪戦が繰り広げられる。

 

応仁・文明の乱で荒廃したが、

家康が慶長16年に門跡寺院の寺格とし、

江戸初期にはほぼ寺観が整った。

 

宸殿と客殿(正寝殿)は、重文に指定されている。

 

嵯峨天皇の離宮の庭園として

造営された【50】大沢池は、

歌枕として広く知られた。

 

池の北側にあって池に水を流していた滝には、

元々、名が無かった様だが、

藤原公任の名歌

「滝の音は絶えてひさしくなりぬれど

 名こそ流れてなほきこえけれ」

に因み「名古曽の滝」として知られる事となった。

 

近年、滝跡が復元され、

すぐ北の住宅地に「名古曽町」と云う地名が残る。