現・修学院離宮となる山荘を造営した上皇は誰か?
「徳川和子(マサコ)」は、
後水尾天皇の女御として入内し、
家康は立后の儀を執り行った。
なおも家康は、
「禁中並公家諸法度」を押し付けて、
天皇の政務を縮小させた。
更に幕府は、
元和元年以降に発せられた
紫衣(シエ)勅許を取り消す命令を発布した。
天皇は失望し、
寛永6年、興子(オキコ)内親王(明正メイショウ天皇)に譲位、
後水尾上皇は、
洛北に山荘を造営し隠棲した。これが修学院離宮である。
現・修学院離宮となる山荘を造営した上皇は誰か?
「徳川和子(マサコ)」は、
後水尾天皇の女御として入内し、
家康は立后の儀を執り行った。
なおも家康は、
「禁中並公家諸法度」を押し付けて、
天皇の政務を縮小させた。
更に幕府は、
元和元年以降に発せられた
紫衣(シエ)勅許を取り消す命令を発布した。
天皇は失望し、
寛永6年、興子(オキコ)内親王(明正メイショウ天皇)に譲位、
後水尾上皇は、
洛北に山荘を造営し隠棲した。これが修学院離宮である。