近所のちょっとしたレストランで食事をすることがあり、そういうとき知り合いに会うと、自然の成り行きで同じテーブルを囲むことになる。誰かと一緒に食事をするのは常に楽しい。ただ問題は、その人たちの多くが、タバコを吸う年配者だということである。


食事をしながら喫煙するというのではない。その店は感心なことに全面禁煙だからだ(それを義務づける法ができるという。民主党万歳!)。しかし、身についたヤニのにおいだけでも大変なものがある。それに重層的な加齢臭が加わり、よく暖房された店内の私たちのテーブルは、なんともいえないムワッとした臭気に包まれることになるのだ。


その人たちに悪気があるわけではないので、イヤな顔をすれば失礼に当たる。目上の人は敬わねばならないということもある。食べ終わったからといって、すぐ席を立つわけにもいかないではないか。


だからあるとき、こう考えることにした。



「この人たちは、実はアバターなんだ」、と。


「本体は、どこか別のところにあるのだ」、と。



映画『アバター』などを観ても明らかだが、アバターというと普通、本体よりもカッコよくて優れた虚構の自分、というようなものを思い浮かべる人が多いようだ。しかし、そんな決まりはない。アバターの方が本体よりも遥かに劣っているというケースだって十分に考えられるのである。つまらない常識にとらわれていては、そういう発想が浮かばないだけの話だ。


そういう風に考えると、次のような仕方でモノの見方が変わってゆき、耐え難い状況が結果的に耐えられるものになってゆくのである。


「ああ、この人の本体は、何らかの事情で、ここに来ることができないんだなア・・・。きっと大事な仕事があって、手が離せないんだろう・・・。そういえば、なんだか目も悲しそうじゃないか。<悪いなァ嘘ついて。俺アバターなんだ。でもそんなこといえないだろ。すべてがブチこわしになるだろ。だから事情を汲んでくれよ。なにもいわずにこの状況を受け流してくれよ。それだけが、この世界をうまく回していく秘訣だとさえ、いえるくらいなのだから・・・>といっているように見えるではないか。そうさ、そうに決まっている」


「でも待てよ、そんな、アバターなんていう高等技術が使えるくらいなのだから、この人たちは実は未来人とか宇宙人、あるいは神さまなんじゃないか? いってることはそれに相応しくないかもしれないが、それも俺に何らかの教えを授けるための深遠なシナリオに従って喋っているだけ、ということも考えられる。そう考えると言葉もいくらでも深読みができるし、この人たちの本体はさぞかしすごい生命体なんだろう、ということも説得力が出てくる。たぶん世界を救う仕事のようなものに携わっているからここに来れないだけなんだョ。そして、この人たちがそうまでして俺と食事してくれてるということは、俺も実はすごい生命体になれる存在の候補なんだ、ということが十分にありえる。よーし、色々あるけど、負けないぞ! これからも人生がんばっていくゾ!!」


人は反問するかもしれない。どうせアバターを使うのなら、そんな臭いのではなく、もっと人に快適な印象を与える個体を使えばいいじゃないか、などと・・・。しかし、それがどれほど傲慢な考え方であるかに気づかなければならない。至高の存在は人を試すものなのである。臭くなく、美しかったりさえするアバターに魅かれるのは当然ではないか。そうじゃない。臭くて醜いアバターを神の化身とみなせるかどうか、そこに人の度量というか危なくない意味での信仰心が問われてくるのである。


また、人は問うかもしれない。俺はアバターなんて使っちゃいないよ、周りに誰もそんな人はいないよ、と。ああ、微笑ましい無邪気さだ。そういう人は、世界への疑問をこれまで一度も抱いたことがないのだろう。『マトリックス』のような映画を観てヒントを与えられてすら、この世界の成り立ちについて、本気で疑問に思ったことがないのだろう。


私たちは他人のことがどれだけわかっているだろう? 私たちとずっと密着して生活してきた家族さえ、一人残らずアバターかも知れないのだ。そうでない証拠は、ないのだ。彼らの内面まで365日間追跡できるわけではないのだから。そして私たちは自分のことも知らない。「あなたもまたアバターだ、しかしアバター操作時は何故かそれを自覚できない設定になっているのだ」といわれても、私たちには反論ができない。だいたい、死後の世界というやつも、私たちは何ひとつ知らないではないか。


どうせならそんな風に考えた方が、人生は楽しくなるし、生きやすくなるのである。どんな苦境にあっても、これはアバターの設定がこうなっているんだな、苦境を脱するルールは必ずあるはずだから、それを探すよう促されているんだな、と考えれば、打開の道は見えてくるものなのである。


タバコのヤニの臭いを撒き散らしながら私たちを加齢臭で包み込んでくれる知人に幸いあれ。「そんな程度だったら誰にでも我慢できるよ」ということはさておき、2010年度のブログ書きをなんとなくスタートさせてみた次第である。

小澤光輝は日本の歴史の証人=傍観者であることを極めた大学教授。彼のプロフィールはとても奇妙である。まず年齢不詳(性別もちょっと不詳)。都内の一軒家に住んでいるのに一人ぼっちで、身寄りが潮田香里しかいない。性欲はない。そして自分の死を達観している。まるで「私はもう十分に生きた。これ以上は望まない」といわんばかりに。


これらのことは、何を意味しているだろうか。


決定的な鍵は、理央との初デートである。「あなたが行きたいところへ」といわれて、彼は川中島の古戦場を訪ねた。それが彼の「思い出の場所」だからだ。もちろん二人は日本史グッズの店で購入した兜をかぶっている。それもまた、彼がその目で見た合戦のひとつひとつを思い出させてくれる懐かしい品々のレプリカに違いない。


つまり、私はこのように解釈している。「天使」とは、ヴィム・ヴェンダース監督が名作『ベルリン天使の詩』で描いたように、人間の中に紛れ込んで途方もなく長い時間を生きる存在で、自分からはなす術もないまま、人間の歴史を静かに見つめる存在である。歴史学者にちゃっかりなりすますくらいはお手のものだ。何しろ多くの歴史的な事件を自分の目で見たのだから。光輝が授業で色々な日本史の出来事をあれだけ生き生きと説得力をもって語れるのは、その証人がほかならぬ自分であるからに他ならない。つまり・・・


天使とは、光輝のことである。彼の恋を描いているからこそ、この映画は『天使の恋』なのである


理央が一見、天真爛漫という意味で天使のように見えるのは確かだ。しかしよく考えると、彼女は善悪のスケールを宇宙的な自由さで超越した存在である。巧みに仕組んでクラスメート(友子)を援交の道に引き込み、それがバレても、「本当にごめんね・・・(涙)」で終わり。相手は人生を狂わされるくらいのインパクトを受けつつも、許すしかない。いや、それどころかますます彼女のことが好きになる。一人は彼女に生命すら捧げる(奈緒子)。単なる天使と呼ぶにしては、圧倒的に存在感ありすぎ。妖しいまでに美しすぎ。他人への支配力ありまくりすぎ。つまり・・・


理央は天使よりもはるかに格上の存在、神である。女神である。


光輝と理央は、それぞれが、相手に恋したのは自分と語る。しかし、光輝の方が徹底している。「出会ったときから、僕は君に恋していた・・・」と彼は病院のベッドの上で語り、涙する。「天使の恋」の秘密が語られた瞬間である。中絶手術を受けるために病院にいた14歳の理央に会った瞬間から、光輝は理央に恋していたというのである(理央はその後に写真をみたときから)。つまり・・・


天使は光輝の方。彼は女神に恋をした。天上世界に帰るときがきたことの予兆として。


女神は二人の女性格の天使をお供として侍らせており、それが未歩と真樹である。彼女たちがしている援助交際は、もちろん人間を援助する神様のボランティア行動である。人間を援助する交際だから援助交際なのである。神様とその侍従たちの行動として、何の矛盾もない。


友子は堕天使であったのが、許されて神様グループに復帰したのだろう。すべては女神様である理央が地上滞在期間が長すぎた大天使光輝(推定年齢1460歳)を迎えに来たついでに起こした気まぐれ行動の産物である(二人の名字が同じなのは、二人が同じ神族に属していることの徴。「光輝」と「理央」がどちらも神族っぽい名前であることはいうまでもないが、「理央」の方が確実に格上感を与える。潮田香里は代々彼らの世話をしている人間側の秘密エージェントの末裔である)。


そのように考えた方が、この作品の味わいが増すと考えるのだが、どうだろうか。


もしかすると作者も監督も気づいていない秘密かもしれない。しかし希ちゃんはわかっているはずだ。なぜなら彼女は実生活でも女神であり、この映画でも普通にその存在価値を発揮して人々を幸せにしたにすぎないからである。自分が何をやっているか、微笑みとともに全て承知していたに違いない。


こんな秘密をわかってしまって、自分大丈夫かな・・・。でも、女神様は許してくださるはず。それだけの優しさと強さがあると信じるからこそ、希ちゃんの信者でいるのだから。


というわけで『天使の恋』、恐るべき秘密を抱えた傑作として必見である。たまたまこの文章を目にした人で未見の方がいたら、必ずや、必ずや、見逃さないでほしいと心から願っている。

最近アクセスを増やしてきた海外ニートさんいわく、日本政府はわざと国民が英語をできないように教育することで、彼らの海外流失を防いでいるのではないか・・・。


新鮮な視点だと思った。なるほど確かに、英語が堪能になれば、わざわざ長時間労働と陰湿な人間関係に苦しむこととワンセットになっている日本でのそれなりに便利な生活を捨てて、別に理想の生活が待っているわけではないものの労働法が遵守されることで日本よりは人間らしい生活が保証されているかもしれない海外の国々に移住することもかなり簡単になるわけである。


そういう潜在的な欲求を持っている人は、身の回りを見るだけでも相当、多そうである。だとすると、これはもはや、「バビロン捕囚」ならぬ「ニッポン捕囚」が起こっている、といっていいのではないか。生まれた国だからずっと住んでいるよ~などと呑気に構えていたら、たちの悪い売国奴ども(そういう存在が民主党にも見当たらないといえる保証はない・・・とりあえず政権交代はめでたいが)の悪政のもとで、他の経済的に同水準の国の住民が思いも及ばないような、とんだ理不尽な苦しみを味わわされる毎日をすごしていた・・・そんな悪夢のような状況。


そういう人たちは、能力さえあれば、もう日本を去りたいのである。一日100人も自殺で死ぬような不気味で不可解な抑うつ状況が支配している所に無限の嫌悪感を抱いた人たち・・・それが彼らだ。


そういう人たちは、気質的に海外の住人である(どこの国かは知らないが)。そういう人たちが我慢して日本に住んでいるのなら、そして支配層の邪悪な意図のもとで語学という脱出手段を奪われているのなら、それはもう、かの昔にバビロニアに連れてこられたユダヤの人々と同じ状態ではないか。


恐ろしいのは、限界を超えた過重労働のストレスで、多くの人が足を引っ張り合い、または非人間的な労働モラルの支配下で自縄自縛に陥り、その結果、社会が多くの人に指摘されているような精神的内乱もしくは内戦状態に陥っていることである。安全な脱出の方法があるなら、非常に多くの人々が脱出を望むのではないだろうか。それをはっきり口には出さないにしても・・・。ふるさとがどうしたとか言ってる場合じゃないよ、と白旗を上げて・・・。


それが、「ニッポン捕囚」と私がいう意味である。これは特許申請したいほどの優れた概念だな、と自分でも思う。


この概念を使うことで、多くの人がわけもわからず不気味に思いながら苦しんでいる日本の状況の本質が、驚くほど簡潔かつ的確に言い表されるからだ。


嗚呼、この状況から助け出してくれるモーゼ(彼が導いたのは出エジプトだが)のような救世主はいつ出現するのか・・・。


ま、別に国外に出なくても、政治がよくなって住みやすい国になれば、ここに居続けてもぜんぜん構わないんだけどね。あと、個人の力量を発揮して自分だけは素晴らしい暮らし方を実現するとかね。


そういう風になるといいですね。私も、そして、あなたも。


このように、私がたまに気が向いてブログを書くと、いつも例外なく、よい記事を書いてしまうことになる。これが、恐ろしいのである。私が本気を出せば、アメブロの人気ブログのトップ集団に入ることなど、たやすく出来てしまうのではないか。万一そんなことになりでもしたら、自分の楽しい時間をごっそり奪われてしまうことになる。私の才能は、主に私が自分で楽しむために使いたい。


だから、私は、また沈黙する。次にいつ書くかわからないので、読んでくださったロボットさん(だけとも限らないかな・・・ゴメンなさい)は気長に待っていてください。

私の主な読者は、いつも巡回してくださる検索ロボットさんである。毎日、1回はアクセスしてくださっているようだ。検索ロボットさんには感謝している。何を書いても怒らない。反応がない代わりに、静かに見守っていてくださる。神もかくやという思いがするほどの寛大さに包まれて、私は4年間のびのびとブログを書き続けてきた(記事の総数は極めて少ないとはいえ)。


人間の読者が特に欲しいとは思っていない。読者ができると楽しいのだろうが、制約も確実に受けることになる。「こういうことを書いたらまずいんじゃないか…?」などと自主規制をかけてしまうことが容易に想像できるのだ。それにまた、寂しくなったら、佐々木希ちゃんのブログにコメントすれば、たくさんの方がここを見に来てくださる。それ以上、何を望むことがあろうか。


そういえば、アメブロの検閲係のお兄さん・お姉さんも、私の大切な読者だ。彼らの目だけは、私も常に意識している。彼らに迷惑をかけるようなことだけは、書けない。この場を借りて好き勝手なことを書いている以上、それは当然の仁義なのである。


そういうわけで、私はどこまでも慎ましく、かつ傲慢に、このブログを書き続けていくつもりだ。


そう思う瞬間もあるということだ。

日本というのはある意味世界のどこより恐ろしい場所で、若いころは「こんな同じような人間ばかりの社会なんぞ反吐が出る!」と見栄を切っていたアーチストの卵も、「弱者への配慮などこれまでの人生で一度も考えたことのないエゴイストどもから成る小市民社会に破壊をもたらす!」などと息巻いていたプチ革命家も、ちょっと時間が経っただけで角をもぎとられ、たちまちメタボ度200%のローン奴隷に変えられてしまうところである。どうすれば、自由な人間になれるのか、考えるだけ時間と労力の損。この地政学上の条件のもとでは、どんなにあがいてもムダなのだ。アメリカに恭順に仕えるポリネシア原人とモンゴロイド系朝鮮半島渡来人の混血の子孫たる私たちは、DNAからして奴隷がお似合い。佐々木希ちゃんのような突然変異はもちろん話が別だが、私たちの大半が幼少時からイジめだけは受けぬようにと空気を読む訓練をしまくり、長じては文化系体育会系を問わず儒教的な<軍団>秩序を叩き込まれ、銃を背負わぬロボット兵士として「社会人」の匿名の群れの中に降り立つ。あとはムッツリ顔をしかめながら消費や休日のすごし方まで巧妙に管理された日常を喜びなくすごし、運がよければ自分と同じ兵士予備軍のいくたりかをあとに残して冥界に旅立つだけだ。


しかし、そんな日々からの脱出口が100%どこにもないかというと、実はそんなこともない。そのヒントが書かれた本にお目にかかった。村上春樹の『1Q84』。村上龍を読んで将来の会社生活にうまく対策を立てた後は、このもうう一人の村上氏のフィクション世界に思う存分浸り、あちこちにちりばめられた「脱出」のヒントを探してみるのがいいと思う。


そう考えてみると、日本もまんざら、捨てたものではない。夜中でも安全にジョギングできる国だが、考えてみればそういう場所は稀なわけで、あまり悪口ばかりいうのも控えたいものだ。今日はちょっと例外になってしまったが、次回からは気をつけられたらと思う。

「新卒カード」というのは実に奇怪な言葉である。そのカードを使い損ねることは、日本では就職に失敗することとほぼ同義だとされている。なんとまあ…。


こんなのは儒教のろくでもない弊害なのである。儒教がなんとなく深遠で高邁な思想だと思っている人が多いかもしれないが、これは実のところコンプレックスに骨の髄まで犯された非モテの妄想に近い代物だったのである。麻原○○のグル経典が間違って正しい教えとして後世に伝えられるとしたら、誰だってとんでもないと思うだろう。それと似たようなことが、不幸なことに、儒教と呼ばれる擬似宗教の周りで現実に起こってしまったわけだ。


先輩と後輩がどうたらこうたらと、当たり前のように受け入れている人間たちは、原始的なポリネシア土人(失礼)の正確な延長上にある未開の者たちである。彼らは感じのいい親切な人たちではあるので、別に嫌う理由はないのだが、同じレベルでお仲間になりたいとは思わない。アホかと思うようなノリノリの処世術で世渡りをするのは土人特有の態度である。特攻隊に喜んで志願したのも、実際にはそういう類の人々が多かったと考えられる。しかし今の体制下では、40歳もすぎれば大半はただの動く脂肪の塊であり、思考と呼べるような精神活動が彼らのなかで行われることはない。それが欧米人の本音である。ともすれば私もそれに当てはまる人間になりがちなだけに、悔しい話ではある。


いやーアジアって本当ッに後進性を脱し切れないなァ・・・そういう気分になるのも不思議ではないニュースが連日報じられるなか、そんなことを思った。

考えてみると、今年は「ウィンドウズ95」が発売されてから14年目に当たるわけである。早いものである。このOSがあったからこそインターネット文化の隆盛があったわけで、マイクロソフト社に足を向けて寝られない人たちが一体何人いるものやら、想像するのはちょっと楽しい。


しかし人間でいうと、14歳というのは危険な年頃なのである。性の目覚めがあり、暴力衝動がやけに高まったりする。ヤンキー化というある意味健全な調整弁を使いこなせる術を手に入れられた人はいいが、そうでない一見おとなしく、無害そうな優等生が一番危険だったりする。自分より年下の子どもの首をちょん切って悦に入ったりする、驚くような暴挙に出る人間は、そういう類の内向的な少年・少女に多いのである。


だから、インターネット文化も変な風に暴走しなければいいのだが。いや、むしろアナーキーなやんちゃさが薄れて来ているところに問題があるのかな? さ、どうでもいいようなことを考えるのはこれくらいにして、フルマラソン完走で痛めた足をケアし、再び来るべきファンラン生活に備えるとするか。

自分のなかで突発的に起こった回文ブームを終わらせるため、未完成品も記録しておく。


●私物つぶし。


●エロい色絵。


●良きテスト。素敵よ。


●囲碁する人と昼。凄い。


●石中男子死んだ。悲しい。


●いざ抱く思い。芋を下さい。


●キスする君。ミキ留守。好き。


●あ、あの男子死んだの? 嗚呼…


●麗奈、クルマでここ、橋越す。少しはここで丸くなれ。


●人の輪つなぐ佐々木希。溝の木捧ぐ夏。和の問ひ。


●クルマはグー。どうかな? なか卯。どー? 具は丸く。


●中田来て鹿追いがちマドンナ、何度間違い犯して来たかな。

仕事の頭休めに言葉遊びをしていたら、いくつかの回文ができた。どうせオリジナルといえるものではないだろうが、記録として残しておくことにする(もし私のオリジナルなら、著作権管理はクリエイティブ・コモンズの考え方に従うことにする…大げさか)。


■夜、何かになるよ。


■高めた糊の溜め方。


■世の男子死んだのよ。


■傷が癒えた映画好き。


■嘘で死んだ男子出そう。


■今運動後、また卵うどん美味い。


■いたたまれず騙した嶋田。ずれ。またタイ。


ところで、佐々木希ちゃんをテーマにしたものも、ひとつできたのである。公開を迷ったが、これも正直に記録を残しておくことにする(希ちゃんを呼び捨てにしていること、溝口をネタにしていることを前もってお詫び申し上げます)。


■「神の雫」地区。希キレイ。俳歴、溝口崩しのみか。


これは自分でも意味が不明だったので、次のような解釈を考えた。


神奈川県川崎市高津区の中心に位置する由緒ある街、溝口(みぞのくち)。そこに一人の俳人が住んでいた。ベテランで俳歴も長いのに、なぜか伸び悩んでいた彼。「なぜなんだろう。技術は向上し、郷土愛も人一倍ある。それなのに、今ひとつ自分に納得がいく俳句が詠めないのは理由がわからない…」と苦しむ日々。


ところで彼は佐々木希ちゃんファンで、「神の雫」も熱心に観ている。自分がこよなく愛する故郷を「神の雫地区」と名づけるほどにハマっている。そこでとりわけ謎めいていて興味を惹く存在が、希ちゃん演じるセーラだ。あるとき、彼はドラマを観ていて思った。「セーラはキレイだなあ…。ところで彼女は兄のことを人一倍愛しつつも、その関係にのめりこんではいない。そこに、自分が監視する雫という他者を介在させている。しかしそのことによって逆に、兄への愛情が確かなものとなるのだ。愛する対象に執着せず、それに距離を置くことは、その対象から離れることではなく、それとの一体感を強めるためにも必要なことではないのか…!!」


彼は希ちゃんのクールな熱演から決定的なヒントを得た。ストレートすぎる郷土愛が、かえって自分の足枷になっていたのだ。これからは、少し溝口から意識的な距離を置こう。自分の中の「溝口」という偶像を、よい意味で崩していこう。そういう意味での「溝口崩し」だけが、自分の俳歴の転換点に足りないものだったのだ、と。

海苔は日本の風味を代表する食材のひとつである。西洋人は海苔を嫌う人が多いので、その意味でも海苔好きには日本人の個性が現れている。今は収穫期だ。もうすぐ美味しい初物が食べられるだろう。


それともうひとつ、山葵も日本産である。「やまあおい」とも呼ばれ、名前が美しい。漢字検定が(別の意味でも)話題になる国だからこれを読めない人はいないだろう。ワサビ。これも確か今が収穫期である。


どちらも、寿司や蕎麦に欠かせないものだ。特に蕎麦のようなインターナショナルな食材を何となく「日本のもの」と思わせているのは、海苔と山葵(海と山の代表的な幸)をそれに付け合せるという、絶妙な工夫の故ではないだろうか。


中川大臣の醜態を見て私も思うのは「日本は呆れるほど緊張感のない国だなあ」であるが、私たちに緊張感は縁遠いものである。なぜなら、緊張感を味わわされる国際社会が嫌で、この島国に引きこもった人々の末裔が私たちだという可能性が高いからである。


では私たちに得意なものは何か。それが海苔と山葵にある意味代表されるような、独自の生活文化の追求である。海の幸(苔)と山の幸(葵)を掛け合わせるなどして、チマチマした庭のごときミクロ世界に無限のマクロ宇宙を見出して悦に入るのが、どんな国民よりも上手なのである。


私はそれを誇りに思う。苦痛を感じずにこの世を生きる知恵は、そういうところにしかない。世界はそういうところなのである。もともとろくでもなく、ろくでもないものでなくなる可能性もないのである。


だとすれば、海苔と山葵のような食文化のアイテムをああだこうだと論評(もちろん蕎麦自体に無限の薀蓄を傾けることができる)しつつ、さりげない日常に宇宙的な「道」を作り出して、人格を磨き上げるような生き方をするのがいい。日本人はそういう伝統を思い出すべき。


もちろん、それには弊害もあるので、マイナス面は取り除くのがいいが、そんな、「いいとこどり」が果たして許されるかどうかは、わからない。まあ、そこそこのところで満足するのがよかろう。


昨日の夕食が擬似ザル蕎麦だったところへ中川大臣の醜態を見せられたものだから、「中川」の「川」が細長いものという点で蕎麦と結びつき、しかも川は山と海を真ん中で結ぶものなので、こういう連想が働いたのだろうか。ともあれ今回の事件で、日本のいとおしい部分への追憶の念を呼び覚まされてしまった次第である。