鮑信の騎馬隊が敵の中枢の一万に突っ込み、そして完全に呑み込まれた。曹操は咆哮と共に一万に突っ込んだ。曹操が剣を振るうまでもなく、一万は崩れ潰走を始めた。それを皮切りに敵全体の陣が崩壊し、敵は北に逃げ始めた。夏侯淵と曹洪がそれを追いに追って敵を討ち果たしていった。

 鮑信は敵の中心だったところで、馬にうつ伏せになって死んでいた。鮑信は無数の浅傷は受けていたが、致命傷となるような傷は負っていなかった。まさに死ぬまで、剣を振り続けたのだった。

 北に逃げた青州黄巾党は、済北郡の岩山地帯に拠った。それ以上、北には行けない。袁紹の支配地域となるからだ。つまり、形の上では追い詰めたことになる。しかし曹操軍も限界だった。激しい戦闘で五千程の兵を失いながらも賊を追い、岩山を囲むように柵をめぐらし、弓兵を配置した。そこまでは不休でやった。それから兵には兵糧を取らせ、休息を与えた。

 しかし、曹操軍の限界は別のところにあった。兵が賊を殺しすぎたのだ。逃げる賊を、追いに追い討ち果たした。干戈を交えるのとは違い、殺戮は人の心を蝕む。兵は戦が終わると、時と共にその心の傷を癒すのだが、今はまだ心に澱が残っている。その澱が人の心に充満しあふれ出た時、人の心は毀れる。夏侯惇もそのことが分かっているので、今の兵に厳しい要求はしない。

 岩山を囲む曹操軍は、厳格な軍律の中に、妙な静けさがあった。

 つまり、講和の時だった。講和とは、死力を尽くして戦った者同士の間において、初めて成立し得る。曹操が講和の使者に立てたのは、東武陽から呼び寄せた荀彧だった。武の色が強い夏侯惇では、この任務は適任ではなかった。講和で向き合わねばならないのは、人の心である。敵意ではなく、利害で相手を説かねばならなかった。

 曹操はこの時、青州黄巾党に対して、ある感情が芽生え始めていた。

 青州黄巾賊を、麾下に加えたい。そして追従してきた流民百万を、我が民としたい。

 不思議な感覚だった。今まで黄巾賊は討伐の対象であり、それは任務だった。軍功を稼ぎ出世するための仕事に過ぎなかった。その道が、天下に通ずると信じていたからだ。だから黄巾賊は野に討ち捨て、軍功だけを持ち帰ってきた。

 しかし青州黄巾賊との戦は、単に反乱の鎮圧ではなく、曹操の心にある問いを掛けつづけてきた。

 民とは何か。

 民とは弱いものである。いつの世も覇者に虐げられ、搾取され、夜露のようなその命を辛うじて繋いできた存在。

 逆に覇者は力を持ち、時には帝となり権力と権威を振りかざし、人が考え得るあらゆる欲求を満たそうとしてきた。

 今まさに幽州の公孫瓚(こうそんさん)(えき)(きょう)に追い詰め、河北四州を掌握しようとしている袁紹など、その覇者たらんとする典型といえる。袁家は四代にわたって三公(最高位の三つの官職)を輩出した名門である。その名声を最大限利用して袁紹は人と兵を集め、河北各州を制圧していった。謀略にも長け、冀州を狙う公孫瓚を、冀州牧の韓馥にけしかけ、自らは援軍として冀州に入ると、韓馥を脅してそのまま冀州を乗っ取った。このような悪行も、名門という名ひとつで、掻き消えてしまうのである。

 袁紹の目論見は明確で、それは帝になることである。その態度は常に尊大で他人を見下し、他人を戦わせることで自ら利を得ようとする。反董卓連合の時も、自らの兵は一切動かそうとはしなかった。その袁紹が労せずに、今まさに河北四州を掌握しようとしている。袁紹とは若い頃より共に切磋琢磨してきた仲だが、人としての在りようがまるで違うと、曹操は思っていた。今はまだ決定的な対立関係にはないが、いずれ河北を制圧し、巨大になった袁紹に立ち向かうことになると、曹操は覚悟していた。

 青州黄巾賊との三月の交渉を終え帰陣した荀彧は、板に横たわっていた。死んだ、曹操はそう思ったが、かすかに目を開けた荀彧は、曹操に微笑みかけた。つまり、交渉は成ったのである。