岳霖(がくりん)たちと別れると、阿列(あれつ)は一路寿(じゅ)(しゅん)へ向かった。足取りは軽い。(かい)(りょう)(おう)の事は変わらず頭をよぎっていくが、以前のように、心に重くのしかかってくることはなかった。

 帝と言えど一人の人間。岳霖の言葉。海陵王は(ごう)に従い、死に至った。そう考えると、海陵王を死に追いやったことを業と呼ぶのなら、その報いは我が身に自ずと訪れる。その時まで、凛として構えていればよいのではないか。ことさらに心を自ら虐め、傷つけることは、業に対する忌避(きひ)に他ならない。そう思えるようになった。

 寿春に入った。街道を行き交う人は多く、その表情もどこか明るい。市場には多くの品が並んでいた。戦の後とは思えないほど、城郭は活気に満ちている。

 (とう)梁寺(りょうじ)の場所を尋ねると、南東に四十里(二十キロ)ほどのところにある(えん)(りゅう)という(ちん)(大きな町)のはずれにあるという。

 すぐに向かうこともできたが、宿を一晩取って、明日向かうことにした。

 なるべく安そうな宿を探して、街を歩いた。質素だが、手入れの行き届いていた一軒の宿を見つけ、訪いを入れた。愛想のいい主人が出迎えてくれ、一晩の宿を頼むと、快く宿を案内してくれた。

 案内された食堂に掛けられていた一枚の人物画を見て、阿列は言葉を失った。

 それは紛れもなく、父、慎思(しんし)の肖像画だった。騎乗で大刀を下げて持つ姿が、雄々しく描かれていた。

「ご主人、この方は」

 阿列の言葉に、主人は笑みを返してきて言った。

「これは耶律慎思様です。去年の戦の際、この寿春にひと月ほど滞在されました」

 父が率いる契丹(きったん)兵は、阿列の本隊の後詰と、どこに集結するか分からない梁山泊軍への対応の為、寿春の滞陣を命じてあった。なぜ、その父の肖像画が飾られているのだろうか。

「十万もの軍が滞陣すると聞いて、城郭(まち)の者はみな家に籠り、門を閉ざしました。家財は隠し穀物も床下に埋め、じっと軍が去るのを待ちました」

 今、国境は淮河(わいが)とされているが、そのすぐ南に位置する寿春は、常に金国の侵攻の脅威に晒されていた。金国にとって寿春は敵地である。略奪や暴行は戦の常、軍が来た時の対応も、あらかじめ考えられていたのだろう。

「ところが慎思様は、略奪どころか徴発も一切行わず、軍の一部を警ら隊として街に巡回させ、ごろつきの類を一斉に取り締まり始めました。おかげで城郭は以前よりも治安が良くなり、商いもやりやすくなったのです。金国の脅威に押しつぶされ、ごろつきになる若者も多かったのです」

 例え敵地でも、戦で民を巻き込まぬよう配慮する。なんとも父らしい。阿列はそう思った。

「敵地にいるためか、慎思様は滅多に姿を見せませんでしたが、この絵はこの宿に泊まっていた絵師が、たまたま軍営に入っていく慎思様を目撃してここに籠り、描かれたものです」

 主人が懐かしむように、父の肖像画を見ながら語った。

「この方は敵国の将軍なのに、この城郭の民には慕われていたのですね」

 主人が、大きく頷いた。

「この城郭がここまで活気があるのも、慎思様のおかげだと、みな思っています。ここは南宋の領内ですが、慎思様を敵国の将だと思っているものはおりません。慎思様が戦死されたと聞き、みな哀しみ、みな慎思様の分まで頑張ろうと、日々の生活に精を出しています」

 阿列の胸の奥が熱くなり、込み上げてくる涙を堪えるので、精いっぱいになった。

「ご主人、御免」

 阿列は振り返りそう言うと、駆け足で宿を出飛び出した。主人に、涙は見られていない。

 このまま、倒梁寺まで駆けて行こう。夜明けまでには、到着できるはずだ。

 父が言った、水になれ、という言葉は、武人としての心得だけのことではなかったのだ。例えどんな状況に陥ったとしても、己の信念を見失わず、己であり続ける。今の自分に欠けているのが、それなのだ。どのような器に入れられても、水は水で在り続ける。

 駆けに、駆けた。駆けるほどに心が澄んでいく。躰に溜まった古い気が、呼気とともに出ていき、新たな気が吸気とともに、躰に入り宿っていく。自分が、生まれ変わっていく。疲労など微塵も感じなかった。

 倒梁寺、初めて訪れる場所だったが、何かに導かれるように駆けた。

 少し小高い丘の上、払暁に照らされる、寺の建物が見えてきた。

 山門。一人の僧が立っていた。まるで阿列が来ることが分かっていたかのように、阿列に向かって、一礼した。

「慎思殿は、こちらに」

 僧は阿列を、境内に招き入れた。本堂の脇、仏塔。僧と共にゆっくり歩み入る。

 仏塔の中、海陵王が、立っていた。

 海陵王をすり抜け、奥に進む。

 厳かに祀られた仏像。その仏像に宿る、父の姿。足元に、大刀。

「多くの民がこの仏塔を訪れ、慎思殿の死を悼みました」

「和尚、感謝いたします」

 阿列が僧に一礼すると、僧は丁寧に頭を下げた。

 大刀に、そっと触れた。

 故郷、臨潢府(りんこうふ)の民の笑顔が、浮かんできた。