「闘争の気配を感じ、駆けてきた。おそらく賊だろうな、三人の死体と、気を失った男、這ってその場を去ろうとした男がいた。死体の傷を見ると、やったのは並の手練れではない。そしてお前が倒れていた」

 思い出してきた。その死体の様子を思い浮かべて、阿列(あれつ)は吐き気がして口を押えた。岳霖(がくりん)は、じっと阿列を見つめている。

「生きていた二人は始末した。二人に話を聞こうとしたが、すでに心が(こわ)れ、眼が死んでいた。話など到底できない状態だった。もう、まともには生きてはいけないだろうからな、楽にしてやったよ」

 心が毀れる、そんなこともあるのだろうか。死ねば楽になる、そんなことも考えたことはなかった。

「三人の男は、私が殺したようだ。刀で襲われて、咄嗟に。だが、どうやったかは思い出せない」

 岳霖が、頷いた。

阿列(あれつ)、お前はどこに行こうとしていたのだ。旅をするにしては、丸腰ではないか」

 阿列は、懸命に記憶をたどった。

「私は、寿(じゅ)(しゅん)に行こうとしていた。誰かにそう強く言われた気がする。だが寿春に何があるのかは、わからない」

「寿春と言えば、去年の戦で梁山泊(りょうざんぱく)軍とお前の父、耶律慎思(やりつしんし)殿が戦った地だな」

 耶律慎思、その名を聞いて阿列の心に、かすかな火が(とも)った。

 父は、寿春で死んだのだ。その地に行こうとしている。

「そうだ、(とう)梁寺に(りょうじ)行けと言われた。(しん)(よう)にだ」

 父の死を戦場で聞いた。その時は作戦前だったので、頭の隅にしまっていただけだった。そしてその戦の後、梁山泊軍と行動を共にすることになったのだ。

「私は、帝を殺した」

 阿列は、声を発した。

「思い出したようだな。お前は金軍総帥、耶律阿列として南宋に攻め入り、南宋軍総帥のこの俺と戦ったのだ。その胸の傷が原因かは分からんが、一時的に記憶を無くしていたのだな」

 岳霖(がくりん)耶律哥(やりつか)を見た。耶律哥が頷く。

「私が(かい)(りょう)(おう)を、金主を死に追いやったのだ。その罪の重さを沈思するうちに、己が己でなくなっていったのだろうか」

 阿列は自分が何を言っているのか、分からなかった。

「なあ阿列。帝といえど一人の人間、そうは思わんか?俺も一国の軍の総帥だった。だが今は一人の旅人だ。地位は失ったが、俺が俺でなくなったとは思わん。むしろ、地位というしがらみから解き放たれて、より人らしくなったとさえ、思う。もちろん、死なせてしまった将兵の命は重い。それは忘れないがな」

「陛下には、私を引き立ててくれた恩がある。岳霖、お前は恩人を手にかけたことはあるか?」

 岳霖は、すこし考える素振りを見せた。

「それがお前の不幸、いや(ごう)、というものなのかな。その業が、お前を取り殺そうとした」

 阿列は、焚火の火に目を落とした。その柔らかい炎が、阿列を優しく包んでいくような気がした。耶律哥が薪を足し、串に刺してあったけものの肉を、返しながら少し火から遠ざけた。

「業、か。そう言えば胡土児(コトジ)は俺に、業を背負う必要などない、と言ったな」

 阿列が胡土児の名を出すと、岳霖は声を上げて笑った。

「なるほど、あいつらしい。確かにあいつは業とは無縁だな。業の塊のような吹毛剣も、何食わぬ顔で佩いているしな。普通の人間なら吹毛剣など、触れることすらできないだろうに」

 岳霖がそう言うと、耶律哥が身を乗り出した。

「岳霖殿、胡土児様をそんな風に言わないでいただきたい。胡土児様は、吹毛剣を佩く意味を、ちゃんと理解しております」

 岳霖は少し煩わしそうに、顔をそむけた。

 胡土児。不思議な男だった。敵として向き合っているのに、剣を抜く気すら起こさせない。替天旗(たいてんき)を掲げながら、心は自由でいて、言葉はどこまでも透き通っている、そんな感じだった。