「こんな襤褸(ぼろ)一人に、何を求めようというのでしょう」

「単刀直入に申し上げます。金国のために、力をお貸しいただきたい」

 それを聞いた簫炫材(しょうけんざい)の全身から、憤りが噴出するのが、はっきりと感じられた。

「ご冗談を。私はかつて、金国から命を狙われたのですよ」

「よく存じております。それを承知で、お頼みしております」

「仰る意味が、よくわかりません」

「簫炫材殿、あなたが何故襤褸を纏っているのか、私にはわかります。あなたは、私心を捨てようと藻掻いておられるからです。ですが、その私心が捨てきれない。ですから襤褸として彷徨(さまよ)い続けているのです」

 そう言うと(せき)(りつ)は、覆っていた覆面を取り、卓に置いた。

 析律の顔の左側は焼き(ただ)れ、真っ黒になっていた。唇は左半分が焼け落ち、歯が見えた。耳は無くなり、黒く盛り上がった肉に、穴が開いているだけだった。

 析律の顔を見て、(りょう)(こう)は目を背けそうになったが、何とか堪えた。簫炫材は、じっと析律の顔を見つめている。

「私は本来、戦に赴くような人間ではなかった。だが、水軍指揮に喜びを見出し、戦に首を突っ込んだ結果、信頼していた兵を死なせ、あまつさえ自分だけが生き残った」

 言葉が所々聞き取りにくいのは、口から空気が漏れているからなのだろう。それを析律が意に介している様には見えない。

「自分が生きることを肯んずるには、もはや丞相としての責務を全うし、金国の民を安寧に導くほかはないのです。簫炫材殿は国という垣根を超え、物流網を中華全土に広げて来られた。想いは同じだと、私は思うのです」

 言い終えた析律は、肩で息をしていた。

「私は」

 簫炫材がしばらく沈黙した後、ゆっくりと話し始めた。

「私は、国というものを信じない。帝が変われば、国の在りようまで変わる。他国に支配されれば民は虐げられ、国が戦を起こせば、人はたやすく死ぬ。そんなあやふやな国という存在に、民の命の全てを、委ねるわけにはいかない。国なき国。宣凱(せんがい)梁山泊(りょうざんぱく)を消し、目指した境地がそれだった。楊令(ようれい)が生きていれば、必ずその考えに至ったであろうと、宣凱は私に言った」

「国なき国」

 梁興は、思わず声を漏らした。

「領土があれば必ず戦は起きる。国を維持する軍も必要となり、その掛かりも犠牲も莫大なものとなる。民が国に依らずとも生きていける国、それが国なき国だ」

「おい簫炫材。もっとわかりやすく言ってくれ」

「民には生きる権利がある。無論、国の民として生きていくために税は納めなくてはならない。ただ、国の都合で多額の税を搾り取られたり、軍人や役人の不正で、理不尽に財産や命を奪われたりしない世の中でなくてはならない」

「そう、北宋が滅んだ原因もそこにあるな。そして今の金国も、同じような状況にある」

「梁山泊は国として、中原に存在していた。だから、金国や南宋に、常に侵略の危機に晒されていたのだ。だから宣凱はまず、領土を無くすところから始めた」

「俺には、民を守る責務を放棄したようにも見える」

「ある意味では、そう言える。轟交(ごうこう)()も同じだ。その存在が見えている限り、国の勝手な都合で、潰されかねない」

「だから闇に消える必要があった、というわけか」

「先帝は轟交賈を敵視していました。轟交賈が、金国内で物流の全てを握るのを恐れていたのです。撻懶(ダラン)殿が病没された時に、轟交賈は金国の後ろ盾を完全に失った、と言えたでしょう」

 析律は、もう覆面をつけていた。

「私は姿を消し、轟交賈の物流網を細かく細分化し、轟交賈の人間に譲渡する形をとった。もともとあったものなので、それは迅速に行うことができた」

「そうやって轟交賈を、表舞台から消していったのか。しかし、その物流網から上がってくる利と情報はそのままに」

「国外の交易は、梁山泊の交易路をそのまま使う。やはり表面上は別の商人として」

「まて、それでは海陵王に交易路を潰される可能性もあったのではないか?」

「梁興殿、交易で得た利の一部は、きちんと納税されておりました。先帝は南進に躍起でしたし、私も梁山泊交易路がどうなったか、探る余裕はありませんでした。国内の安定と造船にかかりきりでしたし」

 言われてみれば、もともと金国は内政官が育っておらず、漢民族の支配にも手こずっていた。南宋の(しん)(かい)ならいざ知らず、そこまで広い視野で戦略を立てられる人材がいなかった、という事なのだろう。