もともと宮中が苦手な岳霖だったが、夜の宮中はさらに不気味な雰囲気を醸し出している。これを厳か、というものなのだろうが、岳霖の人生において、それはまったく縁のないもので、できれば近づきたくないものだった。前を歩く侍従の背中も、なにか人外の物が蠢いているように見えた。
「陛下、岳霖殿をお連れいたしました」
「入れ」
侍従が平伏したまま、下がっていった。岳霖はゆっくり部屋に入った。
さすが皇帝の寝所だけあって、煌びやかな装飾がなされていたが、寝台に座る趙眘はどこか翳があった。
「陛下に拝謁いたします」
岳霖が平伏すると、趙眘はわずかに頷いた。
「帝位などというものに就くと、こんなところで寝起きせねばならん。岳霖、呼び立ててすまないと思っている。面を上げよ」
「お招きいただき光栄です。陛下」
「よい、堅苦しい物言いはなしだ岳霖、楽にせよ」
趙眘は盃を二つ用意し、そこに酒を注ぐと、その一つに手を伸ばし、無造作に盃の酒を飲み干した。お前も飲め、というような仕草をしたので、岳霖も盃を空けた。甘蔗から造った、強い酒のようだ。甘蔗の甘みと、強い酒の刺激が口と喉に広がった。
岳霖が盃を卓に置くと、趙眘はすぐに二つの盃に、酒を満たした。岳霖は趙眘のその粗野な振る舞いに、意外な一面を見た気がした。
「この酒は、小梁山で造られたものですな」
「今やこの酒はどこでも手に入る。小梁山。僅か数年で、甘蔗糖をはじめ物産を交易路に乗せ、成果を上げている」
「梁山泊が領土を失くしても、こうやって物産が残っていくのは不思議なものです。陛下」
「失くす、というのはまやかしなのだ。失くしたものを思った時点で、それは失くなってはおらぬ。本当に失くなるとは、それが誰の記憶からも、忘れ去られた時だ」
趙眘が盃を空けたので、岳霖は酒を注いだ。
「陛下にも、失くしたが無くなってないものが、おありのようです」
「幻、というべきなのか。俺はずっと、幻と現の狭間を彷徨っている」
趙眘は寝台に座っていたが、その枕元に手を伸ばし、何かを手に取って引き寄せた。
趙眘が手にしたものは、一本の笛だった。
「それは」
「李師師という、俺の乳母の形見の笛だ」
「李師師殿と言うと、あの青蓮寺の」
「俺にとっては、乳母であり、母でもあった」
「血縁以上の想いが、おありだったのですね。その笛が、そこにあったという事は」
「血縁であるかどうかは、関係ないのだ」
「陛下もその笛を、吹かれるのですか?」
「李師師は踊り子であった。笛は得手ではなかったはずだ。それが、この笛を一人で吹いていることがよくあった。俺は幼いころ、物陰からじっと、それを聴いていた」
あれだけ荒々しく盃を握っていた趙眘の手が、笛に触れたとたん絹の反物ように柔らかいものになった。
「李師師殿は、確か」
岳霖は言ってしまっていた。いや、趙眘は今、何かと向かい合おうとしている。
「李師師は毒を呷って、死んだ」
「秦檜が、青蓮寺を潰す目的で」
「岳霖、そのようなことはどうでもよいのだ。李師師は、自ら毒を呷った」
岳霖は、李師師の死を政治に結びつけようとした自分を、束の間恥じた。岳霖は黙って頭を下げた。
「よいのだ岳霖。李師師が、何故自ら毒を呷ったのか。それが、今でも分からぬ」
「陛下、人の死を理解しようとするのは、天の理を丸ごと理解しようとすることに等しいのではないのでしょうか」
趙眘は盃の酒を、一口含んだ。柔らかいものが、趙眘を包む。
「そうだな」
趙眘はそう言うと、手にした笛を静かに口に添えた。
音が流れ、それは岳霖の中を通り過ぎた。
音はあらゆるところを自由に行き来し、揺蕩う。どこに行こうというのか。どこに行こうが、そこには何もない。それを自由と呼ぶ。音は何者でもない。それを知ることもなく流れていく。ただ、音の流れるところに人の心がある。音はその心に触れることなく、流れ過ぎていく。どこまでも流れて行けばいい。流れる意味すら、考えることもなく。
ゆっくりと、音が消えていった。
岳霖の手に、雫が落ちた。それが自分の泪であることに、しばらくして気付いた。
趙眘は手にしていた笛を、おもむろに岳霖に差し出した。岳霖は自然にそれを受け取っていた。
「陛下の憂い、この岳霖、しかと受け止めました」
趙眘が、岳霖の眼を見たまま、頷いた。
「いけ、岳霖。己の中の盡忠報国が何たるかが分かったら、その笛と共に戻ってこい」
岳霖の手の中の笛から、温もりのようなものが、伝わってきた。