趙眘が入っていったのは、執務室のようだ。中はかなり広く天井も高かったが、壁にはびっしりと書物が並んでいた。
一方の壁一面に中華の地図が掛けられていて、それは、東は日本、西は西夏、南は蒲甘や小梁山まで網羅した広大なものだった。そしてその地図が真っ黒に見えるほど、書きつけがなされている。
「岳霖、この地図が何かわかるか」
岳霖は地図の書きつけに目をやった。
「これは、各地の主要品目の値の動きですね。それぞれの品名に六つ程、数字が書かれております。つまり、物の値の推移、でしょうか」
書きつけは南宋だけでなく、金国内を含んだ中華の城郭、鎮、荘に至るまで細かくなされ、その量は、見ていて気が遠くなるほど膨大なものだった。
「そうだ。各地点、開戦前よりひと月ごとの値の推移だ。これを見て何か気付かぬか」
「どの城郭も、多少の動きはありますが、さほど大きな変化はないように思えます。つまり、物の値は、戦時においても安定していると」
「朕は、古今あらゆる戦の検証を行ってきた。国の存亡が掛かったような大きな戦は、特に詳しくな。そのどれも、戦によりその国の経済は大きく衰退し、物価の乱高下により民の生活は困窮を極めた。それは国の人口にも表れる」
「これを見ると、今回の戦による民への影響は、ほとんど見られない、という事ですね」
「朕は毎日、この情報の精査に謀殺されながら、背筋が凍りつく思いであった」
「陛下が何故、それほどまでに」
「解らぬか。これは自然に起きる現象では、決してない。戦が起きても経済が安定している。これはこの中華に、巨大な思惑が暗躍していることを意味する。朕の知らぬところで、国を動かすほどの力が作用しているのだ。そしてそれを、裏で操るものが、必ずいる。この恐ろしさが分かるか。そのことに比べれば朕が進めた改革など、児戯に等しい」
趙眘の言葉が、徐々に緊迫したものになっていく。あの冷静な趙眘が、ここまで声を震わせる存在が、中華に潜んでいるとでもいうのか。
「陛下が私をここに伴ったわけが、分かりました。陛下のその不安、私が払拭いたします」
趙眘がじっと、岳霖の目を見つめた。
「陛下は私が軍の総帥を辞した後、どうするつもりなのか、見抜いておられます。だからこの場に私を導いたのです」
趙眘が、顔を伏せた。
「朕は以前より、お前にこの事を頼みたかったのだ。しかし、言い出せなかった」
「恐れながら、陛下とは武を通して、心が通じ合っていたようです。私が総帥を辞することも天の導きだと、今なら確信いたします」
趙眘が顔を上げた。その眼には、先ほどのような緊迫感は消えていた。しかしその落ち着きの中に、何処か翳りのようなものを感じ、岳霖は狼狽した。
「岳霖、朕は天などというものはあまり信じてはおらぬが、お主が言うのなら、それも真の理かもしれぬ」
「おそらく父もそうだったでしょう。天などという言葉を用いなくとも、父には衝き動かされるものがあり、ただそれに従って、生きたのだと思います」
「それが盡忠報国なのであろう」
「いえ、盡忠報国はあくまで父の行動原理を言葉にしたもの。行動原理そのものではないと思います」
「では、それは一体何だったのだろう」
「一言で言うと、ただの意地っ張りなのです」
「なんだと?」
「ですから、意地っ張り」
「岳飛が、意地っ張り」
「父の事を考えれば考えるほど、その言葉が一番しっくりくるのです。私も右腕を失って、ようやく気付きました」
「なるほど、岳飛がただの意地っ張りか。よく、わかるぞ」
趙眘が、呆れたような含み笑いをした。岳霖もつられて、声を出して笑った。
「岳霖、中華の思惑の件、改めてお主に命じる。時をかけてもよい。かならず突き止めよ」
岳霖は、込み上げる笑いを堪えて、平伏した。
「渡したいものがある。今宵、朕の居室を訪ねよ」
今宵、そう問いただそうと岳霖が顔を上げた時には、趙眘はすでに遠くを歩いていた。