義手をつけることは、拒んだ。

 宣凱(せんがい)から書簡が届き、戦捷の祝いと労いの言葉が認められていた。その書簡の中で、(もう)(てい)殿がご健在で、岳霖(がくりん)の義手を作成したいとのことだったが、岳霖は断りの返書を出した。

 その理由を上げようと思えば、いくつかは出てくる。

 しかし義手を拒んだのは、強烈に脳裏に焼き付いた、義手をつけた父の後ろ姿だった。

 (じん)(ちゅう)報国(ほうこく)

 父が今の情勢を見たら、即座に北伐の兵を挙げることだろう。(かい)(りょう)(おう)亡き今が好機と思う事だろう。もともと南方で、一人きりから岳家軍を再興し、挙兵して(しん)(かい)を破ったのだ。

 今、自分が義手をつけるという事は、その父のやり方を、そのまま受け継ぐような事だと、感じた。そこに、抗いがたい抵抗を感じるのだ。

 もちろん盡忠報国の志が、消えたわけではない。ただ南宋の今の状況を鑑みると、とても北伐ができるような状況とは思えなかった。

 海陵王が死に、女真(じょしん)兵が北に撤退した。とはいえ、南宋もまた多くの将兵を失った。孟遷(もうせん)という父の背中も、失った。国内にはあまりに深い、戦の爪痕が残っている。

 父なら、それは内政を担うものが解決すべき問題、と言いそうだが、岳霖の目には南宋の民の顔が、どうしても浮かんできて離れようとしない。

 それに岳霖は、戦に勝った実感がまるでない。女真兵が北へ撤退したのも、阿列の造反が原因であるし、金水軍を破ったのも()(いん)(ぶん)率いる南宋水軍だ。自分は南宋軍主力を率いながら負けに負け、何とか梁山泊(りょうざんぱく)の援助を受けて、臨安府(りんあんふ)を奪還したに過ぎない。こんな自分が北伐の軍を興すなど、言えた空気でもなかった。

 そんなことを言えば、父に尻を蹴り上げられそうだが、ようやく落ち着きを取り戻した南宋の民を、また戦に巻き込むことは、どうしてもできない事だった。

 金国では()(ロク)が即位したが、南宋でも政変が起きていた。

 難を逃れていた趙構(ちょうこう)が臨安府に戻ってきたが、精神的な衰弱が激しく、とても帝としての政務が執れる状況にはなかった為、帝の座を趙眘(ちょうしん)に禅譲したのだ。趙眘は孝宗(こうそう)として、南宋の二代目皇帝の座に就いた。

 趙眘は帝の座に就くと、次々と南宋の改革に着手した。官吏制度の見直しや農業改革、江南経済の活性化など、その政策はどれも非の打ちどころのない完璧なものだった。

 岳霖の知る趙眘とは、常に内に鬱屈(うっくつ)を秘め、表に己を出すことはなく、その才を測ることはできないものだった。

 武術指南をした際、驚くほどその才が豊かなことに気付かされたのだが、その才はおそらくあらゆる分野に及ぶのであろう。才あるがゆえに、孤独なのだ。岳霖はそう思っていた。

 幕舎で、岩を担ぐ鍛錬は続けている。驚くことに、阿列との一騎打ちの後、岳霖の身体は以前より一回り細くなった。それなのに同じ岩を、今は楽に担げるようになったのだ。腿の筋で耐えていたのが、今は岩の重さが腿を通して、地面に抜けていく感じになった。

 剣撃も、鋭さと重さが増した。以前よりも軽い一撃でも、そこに速さと重さが乗るようになった。今までは、筋骨に頼った斬撃だったが、無駄な筋肉が落ち、身体の芯を爆発させながら剣を振るう感覚になった。戦の後に武の境地が一段上がったのを感じるのは、皮肉なものだが、岳霖は気にしなかった。

 岩を担いでいると、様々なものが去来してくる。

 岳霖はそのすべてを、拭い去った。己が道、そこに思念を集中させた。

「総帥、刻限です」

 従者が、幕舎の外から声をかけてきた。岳霖が岩を上に放ると、しばらくしてから轟音が轟き、岩が地面にめり込んだ。

 岳霖は汗を拭い軍袍を改めると、馬に飛び乗った。