臨安府(りんあんふ)の城壁に『金』の旗が翻っている。それを見た時に湧き上がってきた情動を、岳霖(がくりん)は何とか抑え込んだ。

 負けに、負けた。

 南宋兵は果敢に戦った。その戦ぶりは岳霖の予想をはるかに超え、女真(じょしん)兵を圧倒していた。

 敗戦の責はすべて自分にある。阿列さえ討てていれば、この戦は終わるはずだった。金軍は壊滅し、(じん)(ちゅう)報国(ほうこく)の志は成ったはずだった。

 しかし今それを考えても、どうしようもなかった。剣先一つ、ただ剣先一つが、届かなかった。

 失った右腕よりも、死なせた兵を想う事の方が、心が傷んだ。しかしそれも今は考えないようにした。まだ目の前に、倒すべき敵がいる。

 阿列(あれつ)は自分の追撃よりも、南宋軍への攻撃を優先したのか、追撃は厳しくはなかった。右腕の応急処置を終えて、すぐに戦場に戻ろうとしていた時、梁山泊から供出された疾風(はやて)(小型高速艇)が現れて、臨安府の危急を伝えてきた。

 岳霖は唇を噛んだ。このままでは南宋は滅亡する。すぐに岳霖は引き鉦を鳴らしながら、戦場を駆けた。長江に集結できたのは、一千騎と、歩兵二千。近くにいた南宋水軍で対岸に渡渉した。

 ()(いん)(ぶん)に江北での敗残兵の受け入れと渡渉を頼み、岳霖は臨安府へ急ぐことにした。

 馬()鞍山(あんさん)でも上陸した金軍との戦闘が行われていたが、まとまっていたいくつかの兵の塊を崩すと、臨安府へ急行した。

 臨安府に急襲した金水軍は、中型船およそ百艘らしい。そこから推察すると臨安府にいる金軍の兵はおよそ一万程度。防備を整えた一万の兵が籠る城を、三千の兵で落とせるとは思えなかったが、とにかく急行するべきだと考えた。

 金軍に捕捉されるのを防ぐため、途中で兵を散会させ、各々臨安府を目指すよう指示した。このようなやり方で再集結させるための調練は、反吐が出るほど繰り返したので、一兵も欠けることなく、臨安府に集結することができた。

 今、兵一人一人が臨安府の城壁を見つめている。そしてその眼が、臨安府奪還を決意していることが痛いほど伝わってくる。こんな状況下でも、自分を信じて集結し、戦ってくれる兵が、岳霖の、何よりの心の支えになっていた。

 城壁の上が、にわかに慌ただしくなってきた。夥しい兵が城壁に沿って並び弓を構える。もちろん弓の射程の外にはいるが、あの数の射撃を受ければ、三千の兵など殲滅まで一刻もかからないだろう。また金軍は新型の連弩を配備している、という報告もあった。

 城塔に、将と思しき男が登っていくのが見えた。男は上城塔の、最も高い位置から真っすぐ、岳霖を見下ろした。その将と目が合った。その将は充溢した、よい気を放っている

「南宋軍総帥岳霖、盡忠報国の志は潰えた。速やかに投降せよ」

 戦場に大音声が響いた。声が岳霖の身体に響いてくる。不思議と悪い気はしなかった。

 弓。岳霖はそう言いかけて苦笑した。もう弓が引ける身体ではない。

「合図だ」

 岳霖が呟いた。そばに控えていた兵が、短く返事をして駆け去っていく。

 梁山泊統括、宣凱(せんがい)。まるで天から中華全てを見下ろしているかのような采配。彼はこの先、何を見つめていくのだろうか。

 いや、まずは己のやるべきことに、命を捧げるべき時だ。岳霖は気息を調え、その時を待った。

 しばらくして、城壁に黒い点がまばらに見え、上へ上へと音もなく登っていった。数はおよそ百。まだ城壁の兵は黒い点に気付いていない。

 そして城壁の上辺、弓兵の両翼にびっしりと黒い点が張り付いた。

 次の瞬間、黒い点はまるで蚤が飛ぶように次々と跳躍し、城壁の上に降り立った。それと同時に弓兵がばたばたと倒れ始める。黒い点は刀身の曲がった刀を弓兵に向かって投げつけ、それは正確に弓兵の首筋を掻き切り、黒い点の手元に戻っていく。

 城壁の上は、あっという間に大混乱となった。そして城内からは幾筋の黒い煙が上がっている。