そここから闘争の気配が立ち上がり、激しくなっていく。

 析(せき)(りつ)を囲む兵の輪がじりじりと縮み、正対した一人が析律に斬りかかってきた。剣を横に薙ぎ、地面に膝を折りながらなんとか躱したが、脛を浅く切られた。

 腰が引け、剣を握る手が震える。もちろん人を斬ったことなどない。汗が吹き出し、奥歯がかみ合わず、かたかたと音をならした。

「金水軍都督、析律だな」

 兵の一人が言った。

「私の兵が、裏切ったわけではないのだな」

 析律は、何とか声を発した。

「港に行けば、金水兵の軍袍はいくらでも手に入る。敗残兵を受け入れたのは、軽率だったな」

 今度は、一つ後ろにいる兵が喋った。この者たちは、()鞍山(あんさん)の守備兵なのか。合流する金水兵に紛れ込み、小九(しょうきゅう)華寺(かじ)に潜入したのだろうか。内から暴れれば、急ごしらえの関など、役には立たないだろう。

 しかし、兵士が裏切ったわけではない。そう理解しただけで析律の心は、安堵の色に包まれた。それは妙に心地よいものだった。

「析律、死んでもらう」

 兵が構えた剣が炎の光を照らし、赤く輝いている。析律の身体はもう、動きそうになかった。

 これまでか。析律が構えていた剣が、ひとりでに地に落ちた。

 悔いがないと言えば、嘘になる。

 簫炫材(しょうけんざい)。もし彼と組むことができれば、中華の民はもっと、暮らしやすくなったはずだった。その民の顔を、見ることはできないようだ。

 それも人生だ。男なら誰しも、見果てぬ夢の一つや二つは、抱いて死んでいくものだ。

 析律は目を閉じ、斬撃を待った。趙順には悪いことをした。その想いだけが、最後に心に残った。

 身体に感じるであろう衝撃はしかし、なかなかやってはこなかった。

 人が倒れる気配がしたので、析律は目を開けた。取り囲む兵が、倒れている兵を見て(いぶか)しんでいる

 幾つかの黒い影が地を這い、取り囲んでいた兵に背後から取りつき、触れた。触れられた兵が、糸が切れた操り人形のように、力なく膝を折った。

 その黒い影の一つが析律の身体に寄り、支えた。よく見るとそれは人で、黒装束に身を包んでいた。

「析律様、遅くなり申し訳ございません。まずはこちらに」

 黒装束に導かれ、まだ燃えていない小さな庫裏に身を潜めた。黒装束が庫裏の扉を閉めると、闇で何も見えなくなった。傷ついた脛に、手早く布が巻き付かれていく感覚があった。 

「そなたらは?」

 析律は闇に向かって、声をかけた。

「我らは耶律慎思(やりつしんし)様に仕えていた、鷹羽(おうう)(しゅう)という忍びの者です。慎思様は戦死され、新しい頭領の阿列(あれつ)様は、我らに析律様の護衛を命じられました」

「慎思殿が、戦死された」

「阿列様は岳霖(がくりん)率いる南宋軍を撃退しました。ただ、岳霖は討ち漏らしたようです」

 昼間見た『岳』の旗は敗走する岳霖の騎馬隊だったのか。

「総帥は?」

「阿列様は、明日梁山泊(りょうざんぱく)軍と決戦をなさるおつもりで、河北に留まっております。そして檀徒(だんと)様率いる金水軍の半数が海上より臨安府(りんあんふ)を急襲し、これを陥落させました」

「そうか、では我々は戦に勝利した、という事なのだな」

「梁山泊軍さえ打ち破れば、わが軍に抗うことのできる戦力は、南宋にはございません」

 南宋水軍が消えたのも、臨安府陥落に関係しているのかもしれない。ただこの絶望的な状況で戦捷を聞かされるとは、何とも皮肉なものだった。

「そうか、死ぬ前に戦捷を聞けてよかった。礼を言う」

「なりませぬ。析律様は我らが必ず河北へ、お連れいたします」

 析律は力なく笑った。

「よいのだ。七百もの兵が私のために戦っている。彼らを残して、私はここを離れるつもりはない。そして、この肌に伝わってくる状況は絶望的なものだ。恐らく南宋軍の増援も来ているのであろう。私が死んでもお主らには責任はない。そう言っていたと、総帥にはお伝えくだされ」

「阿列様は、析律様は金国において、なくてはならぬお方だ、と申されました。何卒、ここをお離れくだされ」

 闇が、闇らしからぬ声を響かせている。それが析律にはおかしかった。

「忍びも、涙を流すのか。行け。ここもすぐに危険となる」

 静寂。闘争の気配だけが、徐々に大きくなって迫ってくる。

「しからば、御免」

 闇の中で、析律の意識だけが反転した。