女真(じょしん)兵の前衛が、南宋兵にぶつかっていく。

 それを見た阿列(あれつ)の全身から、粟が立った。

 女真兵にぶつかった南宋兵が突然豹変し、女真兵達を見る間に斬り倒していった。南宋兵は狂ったかのように猛り、跳び、暴れまわり、女真兵を斬り伏せていく。

 堅陣を組んでじわりと接近してきたそれまでの南宋兵が、まるで虎の尾を踏んだかのような豹変ぶりだった。

「これが、盡忠報国の力だというのか」

 阿列は思わず声を漏らした。

 盡忠報国は、中華の北半分を支配する女真族を打ち払い、北に住む同胞を解放することを志としていた。眼下の光景は、まさにそれを体現しようとしているように見えた。

 魚鱗に組んだ女真兵の陣形は、まるで乾いた土の塊が、容易く突き崩れていくかのように、次々と破られていく。

 戦況は、一旦退いて体勢を整える、というものですらなかった。南宋兵の進撃は、女真兵は潰走する(いとま)もないほど迅速で、ほとんど駆け足の速さで女真の兵を打ち倒していく。南宋兵の戦に対する心の在りようが、女真兵のそれと全く違っていた。

 岳霖は盡忠報国の想いを、兵士一人一人に植え付けたとでもいうのか。先日の敗戦と、孟遷(もうせん)の死で、ついにその想いが爆発した、という事なのか。

 女真兵の動きが、決して悪いわけではなかった。果敢に剣を振るう女真兵を、気力だけで斬り倒していく。味方が斬り倒されても、全く気にすることなく、女真兵に襲い掛かる。それはどこか、人知を超えた魔物の兵のように、阿列の眼には映った。

 その惨状に、阿列はじっと耐えた。

 女真兵は南宋兵の倍の二万だが、梁山泊(りょうざんぱく)軍の備えの為、後方に五千を割いている。(おう)(しょう)の別動隊も、岳霖(がくりん)の後方を襲うにはまだ時がかかるだろう。

 阿列は肚を決めた。岳霖は、必ず自分の首を獲りに向かってくる。そこが勝負所だ。

 南宋兵の前衛の勢いが、さすがに鈍くなってきた。女真兵がいくらか押し返そうと奮闘している。南宋兵の中段が前衛と入れ替わり、前進を始める。そのわずかな隙を見逃さず、女真兵が果敢に攻めかかる。

 しかしこの時、すでに彼我の兵力差はほとんどないように見えた。

本来ならとっくに潰走してもおかしくない程の犠牲を出しているが、女真に受け継がれてきた戦う誇りが、兵士たちを奮い立たせている。

 しかし、また女真兵はじりじりと押され始めた。

 阿列はじっと動かなかった。海東青鶻(かいとうせいこつ)の旗が、同じ場所でずっと風で靡いている。それは岳霖からもよく見えるはずだ。来るなら来い。俺はここだ。

 その時、南宋軍の歩兵が真ん中で二つに割れた。

 割れ目は、竹が割けるように徐々に広がり、その間から、騎馬隊が飛び出してきた。

 『岳』の旗をなびかせ、その騎馬隊はまっすぐ阿列のいる丘に駆けて来る。疾駆、という言葉が生ぬるく感じるほど、その騎馬隊の動きは速く、そして、重い。先頭に、やはり岳霖の姿。

 女真兵が懸命に遮ろうとするが、何か触れてはならない物に触れてしまったかのように、騎馬隊に弾かれる。

 岳霖がじっとこちらを見据えたまま、女真兵を斬り飛ばしていく。その剣の動きは、まったく見えない。

 その岳霖と、速く重い騎馬隊が、自分一人を目指し駆けて来る。距離はおよそ三里。

 不意に、阿列の心が凍り付いた。昨夜両断された具足が脳裏に浮かび、背筋に冷たい汗が流れ、呼吸が荒くなり、喉がひどく乾いた。

 そして時の流れがゆっくりになり、岳霖の姿が、二倍、三倍にも大きく感じられた。

 これが、恐怖か。阿列は冷静にそれを受け入れた。