(おう)(しょう)、怪我の具合は?」

 王祥もまた、孟遷(もうせん)との戦いで手傷を負っていた。

「奴の剣は、どれも俺の命を一撃で奪うものでしたぞ。大殿に鍛えてもらったおかげで、かすり傷で済みましたわい」

 王祥が自分の力こぶを叩いて笑った。阿列(あれつ)は苦笑して、立ち上がった。

「よし、行け、王祥。三日後には江南の地を共に踏もうぞ」

 王祥が直立して、踵を返した。

 阿列は夜のうちに進軍し、陽が上るころには橐皋(たくこう)に着いた。斥候の報告によると南宋軍は既に天鵝崗(てんがこう)に堅陣を敷き、金軍を迎え撃つ構えをとっているという。唐括(とうかつ)からも仙踪(せんそう)(ちん)に布陣したとの報告があった。ただ仙踪鎮から天鵝崗へは、龍の背を越えなければならないので、隘路を南宋に抑えられると厄介だった。唐括には、戦闘の隙を見て天鵝崗になだれ込めと命じてある。

 橐皋から天鵝崗まではおよそ五十里(二十五キロ)、慌てず、斥候を四方に飛ばしながら進んだ。兵には兵糧をたっぷりとらせたので、士気は高い。南宋軍に動きはなかった。

 進軍しながら、阿列は自分の心が不思議なほど落ち着いているのを感じていた。五万もの大軍を指揮することも初めての事だったが、国をかけた大戦(おおいくさ)を前に、自分でも笑ってしまうほど心が静かだ。つい去年までは麾下二千騎と気ままに調練し、賊を追い、野営して暮らしていたことを思うと、何処か異世界に飛んできてしまったのではないかと思ってしまう。

 今、自分は金国の禁軍総帥なのである。

 出世を夢見て生きてきたのではなかった。前総帥の兀朮(ウジュ)が討たれたと聞いたときも、たとえ国が乱れたとしても、故郷である臨潢府(りんこうふ)の街は、自分の手で守り抜こうと思っていただけだった。

 ただ、総帥の地位が自分にとって、身分不相応だとも思っていなかった。今まで学び、培ってきた武人としてのありようを全て示して、ここまで来たと思っている。

もう一つ、この戦で勝てば、南宋は金国に併呑され、総帥として自分の役目は終わる。その先に何が見えるかは、そこに立ってみなければわからない。

 岳霖(がくりん)の掲げる(じん)(ちゅう)報国(ほうこく)、あの一撃の重さは忘れない。その重さを跳ね除ける力を、自分は持っていると、信じていた。

 天鵝崗を見渡せる丘に到着した。その頂上に駆けあがり、そこを本陣とした。眼下を、丘を囲むように兵が展開を始める。

南宋軍は歩兵一万が魚鱗に、その左右に騎馬五千騎が整然と布陣している。そしてその後方の丘に『岳』の旗。

 阿列は海東青鶻旗(かいとうせいこつき)を掲げた。

 龍の背に挟まれたこの戦場は、幅がおよそ十里あまり。あまり騎馬が駆けまわる余地はない。歩兵同士のぶつかり合いが勝敗を左右するだろう。阿列は歩兵二万を魚鱗に、二千五百騎を左右に展開した。

 女真(じょしん)兵の展開が終わった。両軍の気が、静かな闘気を湛えている。岳霖がじっと阿列を見据えているような気がした。

 盡忠報国。その志がどれほど重たかろうが、俺は武人として全力で立ち向かう。

阿列はそう岳霖に語りかけた。こちらの兵は倍しているが、気にしていない。岳霖もそうだろう。兵力が戦の勝敗を決定する決定的な要因ではないことは、歴史が証明している。梁山泊(りょうざんぱく)も常に寡兵で宋に立ち向い、数々の勝利を挙げた。

 全力で立ち向かってこい。岳霖。

 阿列が、片手を挙げようとした時、丘を一騎が駆けあがってきた。阿列が振り返ると鷹羽(おうう)(しゅう)の旗を背負っている。阿列に嫌な予感がよぎる。

耶律慎思(やりつしんし)殿、戦死」

 その鷹羽衆はそう告げると、力尽きたように落馬した。周りの兵が駆け寄ってくる。

「案ずるな。死んではいない。寿(じゅ)(しゅん)から駆け通してきただけだ」

 父が、戦で死んだ。阿列はそれだけを、心の奥にしまい込んだ。

 さらに数騎、丘を駆けあがってくる。今度は、阿列が放った斥候だった。

「後方二十里より、およそ千五百騎が接近中。旗は『呼』と『秦』さらにその後方十里に『高』の旗を掲げた歩兵六千」

 寿春で戦っていた梁山泊軍か。父の死を知った鷹羽衆が、必至で駆けてきた速さと、同じ速さでこの戦場に到着した、という事か。『高』はおそらく、かつての梁山泊の将、高亮だろう。

「梁山泊軍は、本隊後方の五千に防がせる。左翼の五千騎も回せ。馬抗柵を幾重にも設置して時を稼げ。仙踪鎮の唐括に伝令。五千、いや一万を橐皋へ回せ。梁山泊軍を挟撃する」

 伝令が丘を駆け下りていく。阿列は前方を振り返った。まずは岳霖、お前だ。

阿列はそう呟くと片手を挙げ、南宋軍に向かって、突き出した。