自陣の幕舎に戻り、皮の帯を解いた瞬間、甲冑が二つに割れて落ちた。
岳霖の一撃だった。剣で受けたつもりだったが、その剣も断ち折られていた。無傷で帰陣できたことが信じられない程だった。
「これが盡忠報国の剣か」
阿列はそう呟くと、新しい甲冑と剣を身に纏った。
幕舎で夜襲の知らせを受けた時、阿列は勝利を確信した。当然即応の態勢はとっており、二千騎はすぐに一万騎で包囲されることになった。
しかし一万騎はあっという間に蹴散らされ、二千騎はまっすぐ阿列の幕舎に向かって駆けてきた。
阿列は、すぐ麾下二千を出動させた。
麾下は、この戦から具足を黒に統一した。父も畏怖した、幻王黒騎兵を模したのだ。阿列もまた、幻王黒騎兵の精強さを目指し、それに劣らない騎馬隊に仕上がったという自負があった。
夜襲を仕掛けてきたのは、孟遷だった。一万騎に即応され執拗に絡まれて、数を減らしていったが、こちらも、実に五千騎が討たれていた。
阿列が孟遷と対峙した時、すでに孟遷は死相が出ていた。王祥との一騎打ちの傷で、すでに命が長くないことを悟っていたのかもしれない。
つまり、死ぬつもりで夜襲を仕掛けてきたのだ。恐らく二千騎も、孟遷と共に殉ずる覚悟できたのだろう。尋常ではない戦いぶりを見せた。
阿列は、孟遷や岳霖の戦い方に憧憬の念を抱いていることに気付いた。
盡忠報国は、女真族による漢族の支配の解放を志としている。先の戦いで半数以上の兵を失いながらも、長江を渡らず、和州に踏みとどまり、抗戦の構えを見せている。これは間違いなく志の強さの表れである。並の指揮官ならすでに長江を渡り、江南で防衛線を張っているだろう。
阿列にそこまでの強い志があるかと問われれば、無い、と答えるだろう。
父は故郷である、臨潢府の治安を守ることが志であると語っていた。自分もそれに心から賛同し、そのために身体を鍛え、部下を調練し精強な部隊を築いてきた。
軍の総帥という立場は、軍人としての誉れと、自分が鍛えてきた部隊を、国のために役立てたいという想いから受けたのだが、それが志かと言うと違う気がする。いや、違う。
孟遷の戦いぶりや岳霖の一撃には、明らかに自身の命、想いをはるかに超えた何かを感じる。その力がどこから湧いてくるものなのか、阿列には分からなかった。
「王祥を呼べ」
阿列は声を上げた。すぐに幕舎の外から返事があり、王祥が勢いよく幕舎に飛び込んできた。
「決戦だ。岳霖は必ず来る。ここで岳霖を討ち取るぞ」
王祥が喜色の色を浮かべた。
「いよいよ、戦を誇りに生きてきた女真の兵と、盡忠報国との決着がつきますな」
自分も王祥も契丹族だが、禁軍の女真兵とは、心を一つにしていると思っている。
「王祥、お前は一万騎で丘の北を迂回、和州を獲る構えを見せろ。恐らく岳霖は意に介すまい。その時は岳霖本隊の背後を衝け」
「殿はいかがします?」
「天鵝崗に進軍できればいいが、おそらく間に合うまい。橐皋に本隊二万五千を置き、
仙踪鎮に二万、唐括に指揮をさせる」
「なるほど、それで岳霖を包囲できますな」
「気を抜くな。南宋軍は二万程だが、孟遷の仇を討とうと燃えているはずだ」
「孟遷、惜しい男でした」
「お前がそれを言うのか」
「敵味方に分かれたのも、運命と思い定めます。それより陛下はいかがいたしましょう?」
「合肥では治安の面ではいささか不安だ。戦に乗じて揚州へ行ってもらう。あそこなら水塞があり防備も整っている」
今回の戦で、海陵王は阿列の指示に従順だった。皇太子の頃は自ら軍を率いることに拘り、梁山泊軍に散々な目に遭っている。今回の遠征では戦の事はすべて阿列に任せていて、一切の口出しはしていない。
それに意外だったのが、胡土児に追い詰められた時、駆け去る胡土児を、阿列は追おうとした。その阿列に向かって、捨ておけ、と言い放ったのだ。
あれだけ胡土児の首に執着していたのが、まるで嘘であったかのように胡土児の名を口に出さなくなった。
それを阿列は、好意的なものとして受け止めていた。
つまり南宋を倒すことに、すべての執念を燃やしていると言えた。拘っていた軍指揮も捨て、戦のできる阿列や父に任せる度量を見せたのだ。
それは成長といっていいのかもしれない。師と仰いでいた叔父の兀朮が死んでから、海陵王は軍の権限を、自ら振るおうとはしなくなった。
その代わり内政については、一族を粛清したり、後宮を乱したり派手な動きをしたが、それらの行為も、金国の支配権を海陵王に集中させ、中華統一へ踏み出すためのものだと、言えなくもなかった。
今の阿列にとっては、海陵王を南宋の首都である、臨安府の玉座に座らせることが、すべてであった。