張朔(ちょうさく)は、()(いん)(ぶん)のこの腰の低さに、好感を持っていた。位の高い身分でありながら居丈高(いたけだか)にならないのは、有能な人間の特徴でもあった。それはこの水塞を見てもわかる。しかし同時に、底のしれない能力に不気味さも感じられた。

「張朔、張朔」

 突然背後から大声で呼ばれて、張朔は振り返った。そこにいたのは、飛び跳ねながら近づいてくる張媛(ちょうえん)だった。

張媛は張朔の目の前に、あの人形をずいと突き出し、背中の取っ手を勢い良く回した。人形がけらけらと笑う。その額には、どういうつもりなのか「張朔」と書かれた札が張り付けられていた。

 張媛は呆れかえる張朔の顔を見て、笑い声をあげた。

「これ、張媛。またお前は」

 虞允文に怒鳴られた張媛が、笑いながら駆け去っていく。

「張朔殿、度重なる張媛のご無礼、お許しくだされ」

 虞允文が苦笑いをして、丁寧に頭を下げた。

「あの娘は、虞允文殿の娘とおっしゃいましたが」

「実の子ではありません。市中を視察していたところ、騒ぎに出くわしましてな。どこぞの捨て子なのか、薄汚れた身なりをしておりまして、無理やり妓楼に売られそうになったところを、私が引き取ってきたのです」

 その話を聞いた張朔は、童貫との戦いで戦死した父、(ちょう)(せい)の事を何となく思い出した。父を亡くしても、張朔にとっては、梁山泊が家族そのものだった。

「変わった娘でな、あの人形も張媛が自分で作ったのです」

「ほう」

「とにかく唐繰(からくり)が好きで、髪飾りや玉などにはまったく興味を示さず、一日中、木や糸と戯れておりました」

 張媛は、遠くで加工前の材木に飛び乗ったりして遊んでいる。

「張朔殿、同じ張性、よしなにしてやってくだされ」

「はあ」

 張朔は、一隻の中型船に案内された。船の後ろ半分は大きな布で覆われている。他の中型船も同じように布で覆われた状態で、張朔はその部分が気になっていた。覆われた部分は、船尾楼にしてはやや大きい。

 胡床が二台、素早く用意された。

「張朔殿、戦は重要な局面に差し掛かっています。思い出したくはないでしょうが、金水軍についてお伺いしたいのですが」

 虞允文が真剣な眼差しを、張朔に向けてきた。

 張朔は目を閉じた。戦に敗れた時のことは、脳裏に焼き付いている。今も夜眠るときは、何度も何度もその状況が反芻され、初めはその悔しさに身悶えしていた。

「連弩、そして指揮官」

 張朔は呟いた。

 弩という武器は古来よりあった。操作が簡便で誰でも扱える武器だが、威力が弱く、矢の装填にも時間がかかる為、あくまで自衛用として用いられ、戦で使われることはなかった。

 それが三国の時代、諸葛亮によって改良され、連弩が開発された。十矢まで連続で矢を放てるようになったというが、小型化を追求したために、やはり射程と威力に難があったという。

 しかし先日の戦では矢の長さは通常の二倍の長さがあり、矢の速度も長弓と変わらない程速かった。

 つまり、金国は極秘裏に連弩の大型化に成功し、実戦配備されていたという事になる。

 そして張朔が敗れた最大の原因は、金水軍を指揮する指揮官の力量の高さだった。

 霧中のあの状況で、兵にしわぶき一つさせず、射程に入り込むまで張朔が異変に気付かなかったのは、現場の指揮官の統率が並外れていた、という事だった。

 考えれば考えるほど、張朔は自分が負けたのが、当然の結果だと思わざるを得なかった。

 連弩の存在はさておき、交易を止めたくないが為、副官を置かずに一人で行動した。少なくとも高威(こうい)を副官として伴っていれば、結果は違っていたかもしれない。

 つまり、戦に対する覚悟が足りなかったのだ。

 張朔はその自己分析で、かえって心が軽くなっていくのを感じた。負けを認められず、負けと向き合うことがなければ、おそらくずっと悔しさに苦しんだことだろう。

幸い救助されて、命は繋いだ。

 傷を負い、軍の指揮はできないだろうが、これからきっと、何かできることが見つかるはずだ。それが見つかるまでは生きて行こうと、張朔は思えるようになった。

「なるほど、連弩ですか。金国はこの戦に必勝を期しているようですな。金水軍の指揮官は檀徒(だんと)という若い将軍です。なんでも(かい)(りょう)(おう)の嫡母の甥だとか」

「虞允文殿、なぜこの水軍をここに留め置くのです?見た所、ここの水軍の気は充溢(じゅういつ)しております。見事なまでに」

 虞允文が困った顔をして腕を組んだ。

「ただ、ひとつ」

 虞允文が、ぽつりと話し始めた。

「私は国の水軍を預かる身、この軍が敗れることは、南宋の滅びにつながる」

「それはここで座していても、同じことでしょう」

 煮え切らない。張朔は虞允文の心が見えたような気がした。つまり、軍人になり切れていない。

「よろしい。では私の懸念を、お見せしよう」

 虞允文が直立する兵に向かって、手を上げた。十名ほどの兵が、船を覆っていた布を取り払った。

「これは」

 張朔は思わず声を漏らした。