二人を連れて開封府へ向かう途中、二人は何度も梁興の荷物を奪おうと飛びかかってきた。焚火のそばで眠っている時や、小便をしている時など、隙があると思ったときはどんな時でも飛びかかってきた。そのたびに梁興は二人を打ち倒したので、二人の身体は痣だらけになっている。それでも、差し出した饅頭や干し肉は、貪り食う。
つまり、人を信じること知らないのだ。あるいは忘れてしまっているのか。けもののように己の為だけに行動する。しかし地方を旅すれば、二人のような子供はいくらでもいた。
梁興は、貧困が人をそうさせると思っていた。食い詰めて賊や兵になるものも多い。子供も親を失えば、ただ飢えて死ぬだけだろう。
かつて江南で、方臘の乱という宗教反乱があった。方臘は、喫菜事魔を教義としていた。
喫菜事魔は本来菜食主義で、不殺生を教養としていたが、方臘が信徒に実践させていたのは、それとはかけ離れた度人というものだった。
度人とは、生きていることそのものが不幸であり、苦しみなのだから、殺してその苦しみから救うことが功徳である、という教えである。
何万もの信徒が集まって度人と呟けば、兵も役人も関係なく、ただ、殺す。同じ信徒でも、和を乱せば容赦なく殺す。自らが殺されても、それで苦しみから解放されるのだから、それは喜ばしいことなのである。
方臘はこの教義で民を洗脳し、信徒を戦に投入した。その数は百万ともいわれ、方臘の討伐に出陣した童貫は、この度人に大いにてこずったという。鎮圧のため童貫が殺害した信徒は、実に七十万を越えたという。
民がこんな馬鹿げた教義すら信じてしまうのは、北宋時代の苛政により、民の心が限界まで荒んでいたからだ。重税により民の不満が爆発し、反乱が起き、国が亡びる。この中華は、幾度となくこのような過ちを繰り返してきた。方臘は自らの野心のために、宗教を徹底的に利用した。古来より、新興宗教が国を揺るがしてきた例は、枚挙にいとまがない。
だから梁興は、貧しい子供を見ると、つい手を差し伸べてしまうのだった。貧困は子供の責任ではない。
しかし梁興は、あの二人を、単なる憐れみや人助けで拾ったのではなかった。彼らのような子供を育てて教育すれば、将来役に立つ人材に育つ可能性がある。事実、いま北京大名府と南京応天府での商いは、そうやって育てた部下が仕切っている。
陳平と劉崑も開封府にやってきてからは、少し落ち着きを取り戻した。貪るような喰い方もなくなり、少しずつだが梁興と話もするようになった。商いはおろか、文字の読み書きもできないが、それは時間をかけて学ばせればいい。どこまで成長するかは、本人の資質次第というところもあるが、志を抱けるかどうかが鍵を握っていると、梁興は思っていた。
梁興は人が好きだった。昔から剣客を何人か囲って、用心棒や腕試しをさせたりもした。その人間が何を想い、そのために自分の能力をいかに高め、発揮していくのか。梁興の関心はそこにあった。
そして、岳飛という男に出会った。
岳飛は童貫の武将として、梁山泊戦に参戦していた。童貫が楊令に討たれると、禁軍は瓦解し、その将軍たちは軍閥として各地に拠り、岳飛もその中の一人だった。そしてその間隙を突くように金軍が南下し開封府を占拠、北宋は滅んだ。
なぜ数いる将軍の中から、岳飛に目を付けたのかはわからない。梁興の男としての勘が、そうさせたとしか言いようがなかった。実際会ってみると、岳飛の眼に宿る、英傑の光に、ただ圧倒された。
当時の岳飛は、軍を維持するためにかけた重税によって、民の反乱に遭い、拠っていた隆徳府を追われていた。
黄州に身を寄せた岳飛は、武具はおろか兵糧の工面にさえも苦心していた。梁興はそれらを援助することで岳飛の信頼を得ていった。梁興の援助に、はじめは岳飛も首をかしげていたものだ。
梁興の自身も、商いがひっ迫した状況だった。北宋が滅び、南京応天府に南宋が樹立すると、宗主は北から大挙して流れてきた商人に様々な権益を与え、財政を立て直そうとしたのだ。土着の商人の多くが、その影響で潰れていった。
梁興は、岳飛にすべてを賭けることにした。時流を読んだというよりかは、自分の生きる道を岳飛と共に歩むと、決意したのだ。