闇が、せり上がり迫ってくる。
草原に寝そべっていた秦容は、思わず跳ね起きた。
寿春の南西二十里、梁山泊軍の集結点。集結時刻は寅の刻(午前三時)。
一万五千の梁山泊軍は夜明け前に集結し、速やかに陣を組む。そのまま一気に駆け、寿春郊外に駐屯する契丹軍に、奇襲をかける作戦だった。
いまはまだ兵は五名、十名と別れて進み、密かに集まる途中だった。
闇の正体に気付いた秦容は、思わず歯噛みし、その作戦が潰えたことを悟った。
「動くな、じっとしていろ」
秦容は呟いた。
闇の気はすさまじい勢いで近づいてくる。歴戦の兵士なら、誰しもこの気配に気が付くだろう。そして迎撃の態勢を取ろうとする。それは兵士としての、本能でもあった。
秦容の思った通り、潜んでいた兵士は、個々に集結をはじめ、武器を手に取る姿まで、秦容にははっきり感じ取れた。
「秦容殿、この気は」
胡土児がそばに来ていった。
「胡土児、この気を、よく覚えておけ」
胡土児もやはり、この気の異様さに気付いている。
「黒い。いや、暗く、どこまでも深い。闇の、騎馬隊か」
闇が、駆け抜けていく。その闇が駆けた後には、兵士たちの闘気だけが、取り残されていた。
おそらく軍の規模や、兵の質まで、すべて露呈してしまったことだろう。
「秦容殿、呼延凌殿に言って、進軍を早めますか?」
「いや、予定通りでいい。呼延凌も、今頃は歯噛みしているだろう。俺はもう少し寝る」
そう言うと、秦容は草原に寝そべった。
前方十里、金軍およそ一万五千が布陣。
払暁と同時に、飛び込んできた斥候の報告を聞いた秦容は、一瞬耳を疑った。
「同数で迎え撃つ気か」
契丹兵は十万という。秦容は少なくとも、五万は動員してくると思っていた。
「同数の新兵で、梁山泊軍が止められると思っているのか?慎思という老将は、よほどの自信家か、愚将なのかな」
呼延凌が言った。呼延凌も慎思の思惑を図りかねている様だ。
「確かに、兵を小出しにすることは、兵法でも愚策とされています」
胡土児が続いた。他には合流してきた高亮がいる。
「呼延凌将軍、その耶律慎思という将は詳しくは存じませんが、十里先から感じる闘気は充実しています。それに斥候の報告ではその内一万は、重装兵という事です。まずその陣容を、実際目で確かめてはいかがですか?」
高亮が言った。さすがは梁山泊軍生え抜きの将軍である。将が持つべき冷静さは、失っていない。
先の大戦でも、沙歇の決死隊に対して、心が折れそうになる梁山泊軍の兵の心を支え続け、最後まで冷静に対処し、被害を最小限に抑えた。判断力は完成している。
「よし、秦容と胡土児は、慎思の陣の偵察だ。俺は残った契丹兵の動向を探る。高亮は堅陣を保ち不測の事態に備えろ」
「よし行くぞ、胡土児」
秦容と胡土児は、駆け出そうとした。
「一言申し上げたい」
高亮が声を上げた。
「俺は、この日が来ることを夢見ていました。またいずれ、替天行道の旗の元で戦える日を。合流した兵もみな、想いは同じです」
一同が、高亮の眼を見つめた。
「高亮、俺もまたお前と戦えて嬉しい。その想いは兵の動きを見れば伝わる。兵の力はいささかも衰えてはいない。俺たちは、また共に戦えるのだ」
呼延凌が言うと、高亮が頷いた。
「胡土児殿も、よろしくお願いします」
高亮が胡土児に、軽く頭を下げた。
「高亮将軍、俺もしばらくは同志だ。こちらこそ、よろしく」
胡土児はそう応えると、馬に飛び乗った。