候真は南の湖岸から、聚義庁の建物があった広場まで、燃える綱の結び目に火を着けながら駆けあがった。背後で次々に火が上がる。すでに西側はかなりの規模で火が燃え盛っている。
候真が放った火も南風にあおられて、あっという間に勢いを増していった。背中に感じる熱風に、候真は恐怖にも似た感覚を覚えた。
夜も更けてきたが、炎によって辺りは明るく照らし出されていた。振り返ると、兵はちりじりに逃げ惑い、まとまって行動している者はいない。
兵は港に残された数少ない船に殺到し、脱出を図っている様だ。限界まで兵を乗せた船は、さらに乗り込もうとする兵を蹴落としながら、港を出ていく。
南の湖岸から、次々と罪人たちが泳いでいくのが見えた。遠くに転々と小型船の姿も確認できる。
候真は息を弾ませながら、広場の前の階段を駆け上った。
「老いたな候真。これしきの事で息を上げるとはな」
既に到着していた羅辰に向かって、ああ、と返事をし、振り返った。
眼下には燃え盛る梁山泊。風が強い。いずれこの辺りや、北の森まで火が呑み込むことだろう。
「梁山泊が、燃えている」
候真が呟いた。羅辰はずっと火を見つめている。
「羅辰、何か思うことはあるか?」
候真が、羅辰に問いかけた。
「いや、なにも」
羅辰が、小さく答えた。
「なにも?」
「ああ、なにも」
「ここまで苦労して、やっと造船所を焼いたというのに」
羅辰はしばらく黙って、炎を見つめていた。
「人が」
「なに?」
「人が、己が為に成すことに、意味などないのだ」
羅辰が、声を絞り出した。
「しかし、お前がこの造船所を焼いたおかげで、千もの俺の仲間は、新しい世界へ飛び出していったぞ」
候真の眼には、多くの小型船が、沖へと遠ざかっていくのが見えた。
「俺には、見えん」
羅辰が、微笑みながら言った。
風が、さらに強くなった。
「おい、ありゃあ、すげぇ炎だな」
突然背後から、大声をかけられた。羅辰と候真は、弾かれたように振り返った。そこには大男が立っていた。手には瓢箪をぶら下げていて、相当酔っぱらっている様だった。
男は二人を意に介することなく、二人の間に分け入って眼下の大火に目を落とした。相当呑んでいる気配だが、足取りは妙にしっかりしている。後ろの建物にも何人かいるようだ。
「お前たちは、あの火から逃げてきたのか?」
男は、目を落としたまま言った。
「いや、あれは俺たちが火を放ったのだ」
羅辰が平然と言うと、男が羅辰の方を見た。
「その頭の包帯、よほどの事があったのだな。そっちの野郎も罪人の格好をしているが、罪人ではないな。かなり腕も立つ」
男は瓢箪の酒を豪快にを呷ると、口からこぼれた酒を腕で拭った。
「俺は羅辰、こっちは候真という。お前の名は?ここで何をしている」
羅辰が言うと、男は大声で笑った。
「お前たち、俺を知らんのか?俺は阿里白様だ。うっとおしい水軍の兵がいなくなったんで、部下と酒盛りをしていたのだ。お前たち、ここを焼いただと?さては間者だな。ここを狙うとは、梁山泊か南宋の手のものか」
阿里白と名乗った男は、候真と羅辰の顔を、交互に覗き込んだ。