「なに、胡土児が帝位だと?」
海陵王は析律の言葉が意外だという表情をし、その後笑い声をあげた。
「胡土児は養子とはいえ忠烈王(兀朮)の息子、帝位を主張してもおかしくはないのでは」
「笑わせるな丞相、おぬしには言ったはずだ。俺は血を糺すと。胡土児は叔父上が死ぬとあっさりと軍を抜け国を捨てた男。金国の民草以下の存在だ。帝位など片腹痛いわ」
「陛下、ではなぜ胡土児の首に、そこまでこだわるのです」
析律を見る海陵王の眼が、異常な光を帯びている。それがいかなる感情の光なのか、析律には分からなかった。
「丞相、胡土児が梁山泊の前頭領、楊令の遺児だという事は知っているな?」
「はい、それを知っていたのは忠烈王と限られた者だけでしたが、胡土児の出自を疑問に思った致死軍が楊令の遺児だと突き止め、公にしたのです。しかし金国内でもそのことを問題視する動きはありませんでした。楊令は太祖(阿骨打)の盟友として金建国に貢献した英雄でもあったからです」
楊令は梁山泊の湖寨が童貫によって陥落した後、北の女真の地に逃れ、阿骨打と再会した。
当時阿骨打は契丹族の国、遼に対して蜂起の機を窺っていた。しかし女真族も一枚岩でなく、遼に対し従順な熟女真と、その支配に反発する生女真に分かれていた。
阿骨打は当時、女真族を一つにまとめることに難渋していた。そこに楊令が現れ、その類まれな武の資質と、どこか翳のある性格に阿骨打が惚れこみ、盟友となった。
楊令は自らの正体を隠し幻王と名乗ると、熟女真の城郭を次々と滅ぼしていった。
その戦いぶりは峻烈を極め、歯向かうものは容赦なく殺し、金銀はすべて奪い尽くし、若い女たちはまとめて生女真の城郭に拉致していった。
しかしこれらの行為は、遼に虐げられた女真族の再興の為だった。事実幻王の集めた軍資金によって生女真は戦う力を得、金建国の悲願を達成できたのだ。今でも幻王楊令の名は、女真族の間では英雄として語り継がれている。
「丞相、我が一族にとって楊令という男の名が、どれほど忌まわしいものとして、永く重くのしかかってきたか、丞相には想像できるか?」
海陵王のこの物言いが、析律には一瞬理解できなかった。
「なんと、楊令が忌まわしい存在ですと」
「かつて太宗(二代目皇帝呉乞買)が楊令討伐の密勅を出すことにより、梁山泊と金国は決定的な敵対関係となった」
海陵王が、静かに語りだした。