南征の準備が整った。

 いささか定められた期限を過ぎていたが、耶律慎思(やりつしんし)率いる契丹(きったん)兵十万も開封府(かいほうふ)へ集結し、明日(かい)(りょう)(おう)が宣戦の儀を執り行うことになっている。

 析(せき)(りつ)は耶律慎思の拝謁に立ち会ったが、初めて目にする慎思は、老人そのものだった。具足姿こそ威厳を感じたが、眼差しや発する声などは、戦場に赴く武将とは思えない、弱々しいものだった。隣に立つ阿列(あれつ)の発する若々しい気と比べると、滑稽に思えるほどだった。

 海陵王はそれでも、慎思の合流をことのほか喜び、将軍の地位を与え激励した。南宋攻略の暁には慎思を臨安府(りんあんふ)の玉座に座らせると約束した。慎思はただ平伏し、陛下の意のままに、という言葉を繰り返すばかりであった。

 禁軍がいよいよ進軍を始めるというのに、南宋の今上帝、高宗(こうそう)は親金の態度を固持し、迎撃態勢をあまりとっていないという。

 ただ南宋軍を掌握している岳飛の息子、岳霖は各地を回り調練に明け暮れている。

 今の南宋を築いた岳飛(がくひ)は昔、(しん)(かい)の謀略に()い、命からがら南方に逃れた。そして一から兵を集め、(がく)()と呼ばれる都を築き、小梁山(しょうりょうざん)と連携し南宋を攻め、ついに南宋の秦檜を破ったのだ。岳飛は今、南宋で英雄として(まつ)られているという。

 析律には武人というものが、よく理解できなかった。なぜそうまでして戦うのか。まるで戦うために敵を探しているようにも思える。

 岳飛の掲げた(じん)(ちゅう)報国(ほうこく)は、中華の北半分を支配する女真(じょしん)族を追い払い、北の漢族を解放することだという。ならば私怨は忘れ秦檜と和し、北に兵を向けるのが(すじ)というものだ。

 前禁軍総帥の兀朮(うじゅ)も、太祖の嫡男として帝位を継承する資格がありながらもそれを()て、軍人であり続けることを貫き、そして戦場で死んだ。

 実際に武器を取り、戦場を駆ける者にしか分からない感情があるのだろうが、戦はどこまでも禍々(まがまが)しいものであり、そうでなくてはならない。であるからこそ、人は平和を望むのである。望んで戦をするなんていう事が、人としてのありように著しく外れた想いであるという信念が、析律にはあった。

 しかし人は争う。海陵王は南宋を攻め、中華の統一を望んでいる。しかしそれは古来中華の覇権を争ってきた王の姿としては、正しい姿なのだ。金国の丞相たる自分は、海陵王を補佐し、その覇業を支える責務がある。その結果、自分が後の世にどのような評価を受けるとも(いと)うことはないし、その覚悟はできている。 

 策は立てた。

 水陸両面から南宋に侵攻する。彼我の戦力を考え抜いた侵攻路に遺漏はない。開戦半年で臨安府に至り、一年で南宋を併呑する。南宋の豊かな資源を使って中華全土の民を繁栄させる。それが、自分が人生で初めて抱いた志だった。

 しかし出陣を前に、国内では問題が噴出していた。

 徴兵と長きにわたる重税で、各地で漢族の反乱が相次いでいた。中でも(けい)兆府(ちょうふ)軍割区が最も激しく、華州(かしゅう)が賊徒に占拠されるという事態まで起こった。 

 (こう)(さい)という男が、少華山(しょうかざん)に千の賊と共に拠っていた。軍営を何度も襲うので、       華州軍と京兆府の軍、あわせて五千を少華山討伐へ向かわせたが、討伐に失敗し、華州を放棄して潰走、生き残った者は千にも満たなかったという。

 報告を聞く限り苛烈な攻撃だったようで、生き残った兵も恐怖にかられ、部隊行動がとれなくなっていた。

 孔最はその後各地に(げき)を飛ばし、それに呼応する形で、全国で小規模の反乱が続発している。国内の治安には徴兵した漢族十万を充てているが、同じ漢族の反乱に、討伐も今一つ成果が出ていない。

 しかし今のところ反乱に対する手立てはなかった。早急に南宋を併呑し、北の漢族の税を減らすしかなかった。各軍割区には激しい戦闘は避け、軍営の警備を強化するように伝えてある。しばらくはそれで耐えるしかないだろう。

 析律は丞相府の執務室で一通りの指令を出すと、椀に米の酒を注ぎ、一口飲んだ。吐きだす息と共に、疲れも出ていくような気がした。最近はこのひと時が欠かせないものになっている。阿列を呼んで飲むこともしばしばあった。