「おい、あれは」
その時、仲間の一人がそう叫び、指をさした。孔最は思わず指さすに目を向けた。
三騎。凄まじい速さで戦場に向かって駆けてくる。先頭の一騎は、身体は大きいが明らかに老人で、ひときわ大きい馬に乗っていた。右手には、反りのある剣を持っている。後ろの二騎は若者のようだが、全身を目一杯使って馬を責め、老人に追いすがっている。それに対して老人は、悠然と駆けている。
孔最はなにやら、おかしなものを眺めているような気分になった。およそこの世のものとは思えないような世界に、迷い込んだかのようだった。
老人は、巨骨を襲っていた騎馬隊に向かって駆けた。騎馬隊の指揮官らしき兵は、その老人の気に気圧されたのか、逃げるように疾駆した。老人はあっという間に追いつき、その首を飛ばした。騎馬隊が算を乱す。
老人はそのまま勢いを落とさず、官軍の本体へ突っ込んでいく。
「ばかな、死ぬ気か」
孔最は、思わず叫んだ。しかし老人は平然と、敵に突っ込んでいった。そして何もない原野を駆けるがごとく敵陣を駆け抜け、ぶつかった兵がことごとく倒れていく。敵の前衛が浮足立った。
俺は一体何を見ているんだ。孔最は茫然と、老人を見ていた。
「隊長」
仲間の叫び声で、孔最は我に返った。
「今だ、全軍押せ」
孔最はそう叫んだ。老人のことは頭から追い払い、力の限り敵陣に向かって駆けた。仲間も続き突撃していく。巨骨も隊を立て直し、横から突っ込んでいく。飛び込んだ巨骨の周りの兵が、次々と宙を舞った。
それで敵陣は総崩れになり、潰走を始めた。
「よし、追い討ちに討て。この機を逃すな」
仲間たちが懸命に、敵に追いすがっていく。
戦は、終わった。追い討っていた仲間はすべて戻り、隊をまとめて損害の報告に来た。
「戦死者百六十二、重傷百五、敵はおよそ千が、華州城内に撤退しました」
孔最は黙って頷き、傷兵の応急処置と兵糧の準備を命じた。仲間が駆け去っていく。孔最にはその犠牲が大きかったのか、少なかったのか分からなかった。
勝ったのだろうか。
孔最は正直にそう思った。いや、負けたはずだ。あの老人に助けられた。あれがなければ俺は討ち死にしていたかもしれない。あの老人は何だったのだろうか。
「巨骨、とりあえず今日は、終わったな」
傍にいた巨骨に声をかけた。巨骨は黙って孔最を見つめ返してくる。孔最は目を閉じた。
足元がぐらついて膝を折りそうになったが、何とか耐えた。へたり込むにはまだ早い。まだ仲間は忙しなく動いているのだ。
「おい、そこの小僧、さっきは惜しかったな」
背後から声を掛けられて、孔最は弾かれたように振り返った。そこには巨馬に跨ったあの老人がいた。
「爺さん、あんた一体」
そう言った瞬間、一条の光が閃き、孔最の具足が縦に二つに割れ、地に落ちた。孔最は驚いて腹に手を当てたが、軍袍はまったく裂けていなかった。
「今まで俺のことを爺呼ばわりした奴は、ろくな目に遭わなかったのだが、見ての通り正真正銘の爺になってしまった。これでは認めぬわけにはいかぬな」
そう言うと老人は、大声で笑った。その笑い声だけで、腰を抜かしそうになる。
「いやすまぬ。俺の名は史進という。小僧、お前の名は?」
「俺の名は孔最、そこのでかいのは巨骨という。巨骨は言葉を話せないが、勘弁してやってくれ。いや、おい待て、史進だと。まさか梁山泊遊撃隊隊長の、あの史進なのか?」
「元、な。今はただの爺だ」
自分の事を爺と言ったのがおかしかったのか、老人はまた笑いだした。この陽気な爺さんがあの梁山泊の史進だと、孔最はまだ信じられなかった。
「ところで爺さん。なぜこんなところに?どうして俺たちを助けた」
老人は笑いを堪えるのに苦労したようだが、何とかそれを抑え込んだようだ。
「別にお前たちを助けようとしたわけではない。戦場を眺めていたら、この乱雲が勝手に駆けだしたのだ。官軍の騎馬隊長に向かって駆けたので、俺は仕方なしにそいつを斬った」
老人が、乗っている馬の首筋を撫でながら言った。乱雲というのはこの馬の名だろう。しかし馬が勝手に駆けだすなど、あるのだろうか。
「それで、この戦場にいたのはなぜだ」
孔最は老人に対する警戒心を、解いてはいなかった。この老人に助けられたのは事実だが、得体のしれないものを無条件に受け入れる気に、孔最はなれなかった。
「孔最、お前面倒な性格をしているな。きっと今までも周りに馴染めず、いらぬ苦労をしてきたのだろう」
孔最は一瞬頭に血が上ったが、言われてみればその通りだった。軍が腐っていると分かっていながらも、何故かなかなか抜ける決心がつかず、一人我慢し、思い悩んだりもした。巨骨に出会って、衝動的に脱柵してしまったのだ。
孔最には、いつの間にか志で人を判断する癖がついてしまっていた。志で解り合えるかどうかで、好悪を判断してしまう。
巨骨は、言葉は話せないが、瞳の奥に志を強く感じたし、胡土児も、志を懸命に俺に説いた。しかし、史進と名乗ったこの老人には、その志の匂いが、全く感じられなかったのだ。