雲(うん)台山(たいさん)(ふもと)の岩場、秦容は五百の兵と共に身を潜めていた。道は隘路(あいろ)で、左右は崖にはさまれている。(しん)(よう)は兵を分け、両側に潜んでいた。ここを抜け、原野に出て東に向かえばすぐに開封府(かいほうふ)だ。

 斥候の報告では、慎思(しんし)は五百の兵と共に、契丹(きったん)兵十万の先頭を行軍しているという。おそらくその五百が慎思の麾下で、腕も立つはずだ。秦容は、特に身軽で武器の扱いに長けた兵を選んで連れてきていた。

 慎思の麾下五百が原野に出たところ、岩場から躍り出て奇襲をかける。まっすぐに慎思に襲い掛かり、乱戦に持ち込んだところを、呼延凌(こえんりょう)率いる千騎が突っ込み、麾下五百を壊滅させる。賊徒のようなこの作戦も、実行が近づくにつれ、秦容の心は踊った。山には軍の気配が満ち空気が徐々に張りつめていく。この緊張感が秦容は好きだった。

「あの岩の出っ張りが見えるか。(そう)(よく)

 秦容が一つの岩を指さして言った。蒼翼が黙って頷く。

「慎思の野郎が差し掛かったら、俺は飛び出す。そしたら狼牙棍(ろうがこん)をあの岩めがけて放れ。あの岩から街道までは一息だ。一気に慎思を叩く」

 蒼翼は秦容の従者だが、高山の傭兵部隊出身だ。山岳での戦闘では右に出る者はいない。壁や岩場を素早く登ることや、飛刀で離れたところの兵を倒すこともできる。体力も凄まじく、馬と並んで駆けても、どこまでも付いてくる。南宋との戦でも、堅牢な城壁を登り、密かに城門を開ける、といった特殊な任務で活躍した。

「なんだ、あの軍は」

 見えてきた慎思の軍を見て、秦容は思わず声を漏らした。具足はすべて黒ずくめで、五百の内、騎馬は一騎、騎乗しているのがおそらく慎思だろう。五百の真ん中あたりにいる。

 しかし秦容が奇怪に思ったのは、そんなことではなかった。 

 慎思の軍には、生気というものがまるで感じられなかった。黒ずくめの具足がより不気味さを際立たせている。兵が行軍している、というよりは妖怪が列をなし人間界に降りてきているような気さえした。そんな軍を、秦容は見たことがなかった。隊列もなにもなく、兵はただ何となく歩いている、といった感じだ。そんな兵と戦う想像が、秦容にはできなかった。

 秦容はその心の混濁を拭い去った。慎思は岩の出っ張りの向こうへ差し掛かっている。

「いくぞ、みんな遅れるな」

 秦容は岩陰から飛び出した。ほぼ同時に向かいの岩からも、部下が飛び出してくる。

 二度跳躍したところで、岩の出っ張りに着地し、同時に後方から放たれた狼牙棍を掴んだ。

 慎思、こちらを見ている。眼に力はない。右手には、なんとはなしに大刀を持っている。背後の部下達も、次々に岩場を駆け下りてくる。 

 秦容は気合を込め渾身の力で跳躍し、山道に降り立った。同時に狼牙棍を振るう。 狼牙棍は唸りを上げ、一振りで敵の三、四人は吹き飛ばした。二度、三度と狼牙棍は吠え、竜巻のように周りの兵と砂を巻き上げた。慎思、届く。

「耶律慎思、覚悟」

 秦容は一度身を翻し、狼牙棍に勢いをつけた。馬上、避けられるはずもない。狼牙棍は地を這い、砂塵を纏いながら、馬上の慎思の頭部めがけて跳ね上がった。

 不意に、空気が熄んだ。

 秦容は宙に放り出され、気付いたときには地面に叩きつけられていた。

 狼牙棍、先が無くなっていた。

 しばらくして、何かが落ちてきた。狼牙棍の頭。それがどすんと地面に落ちると、二つに割れた。

 地から見上げると、慎思はさっきと同じ出で立ちで、変わらずこちらを見ている。眼に力はない。

「なんじゃお前は、何をしておる」

 何事もなかったかのように、慎思が言った。秦容は言葉を発することができなかった。地面に(うずくま)ったまま後ろを振り返ると、蒼翼と部下達は、全員倒れていた。黒い兵だけが、不気味に立っている。秦容の身体が、小刻みに震え出した。

「狼牙棍か。粗野な得物(えもの)を使いおって。こんなものを振るっておるから、己の武が曇るのじゃ。大方それで雑兵の頭でも砕いておる内に、強くなった気になっておったのじゃろう。お前の師匠が嘆いておるのが、見えるようじゃわい」

 師匠、王進先生。秦容はかろうじて王進の顔を思い浮かべた。

「だがおぬしの身のこなし、なかなかじゃったぞ。使うべきは、剣か槍かのう」

 慎思は真っ白な顎髭をさすりながらそう言うと、秦容に関心を失くしたかのように、のそのそと馬を進めた。黒い兵たちも後に続く。

 薄れゆく意識の中、地面に馬蹄が響く。呼延凌。まずい。

「蒼翼、聞こえるか。鉦を鳴らせ」

 残った力を振り絞って、叫んだ。

「この俺が」

 響く鉦の音を聞きながらそう呟くと、秦容は意識を失った。