女。
胡土児は弾かれたように駆け出し、山門へ向かった。確かにあの時、女がいた。
山門を抜け、背中に矢を受けうずくまる女の姿、すでに絶命している。抱いている子。脇腹から矢が突き出している。子が、かすかに呻いたような気がした。胡土児はすぐさま突き出している矢を折り、鏃を取り除くと引き抜いた。血はあまり出ない。胡土児はすぐ子の腹に布を巻いた。
「おい、誰か」
胡土児は叫んだ。一人駆けてくる。
「頼む、急いでこの子を銀号鎮に連れて行ってくれ。轟交賈の輸送隊が来ているはずだ。それにこの子を託してくれ。頼む」
そう言い終わると、胡土児の頭がぐらりと回り、気を失った。
目が覚めると、そこは暗闇だった。建物の中ようだが、誰かが運んだのか。物音は聞こえない。身体を起こそうとしたが、うまく動かない。胡土児は全身の力を抜いた。
俺一人で三百の賊を討ったという。耶律哥のこともわからず、斬りかかった。そんなことがあり得るのか。かつて父に、吹毛剣が俺を人でないものにするといった。候真も確か同じようなことを言った。これがそういう事なのか。吹毛剣が人を狂わせる妖気を放っている、とでもいうのか。
いや、そうではない。人の想い。きっとそれが吹毛剣に幻想を抱かせているのだ。
暗闇が、かえって胡土児を冷静にした。
戸の隙間から差し込む一条の光。夜明けなのか。いつの間にか眠っていたようだ。胡土児は身体を起こし、勢いよく戸を開けた。陽光が、一気に胡土児の身体を貫いた。
「胡土児様」
蕭尤が駆け寄ってきて声をかけた。
「玄旗隊の皆からおおよその報告は受けました。今は百五十名がこの根城で待機しています。残りは根城の入り口で馬の世話をしています」
「耶律哥の容体は?」
「もう元気になり、朝から剣を振っていますよ」
「それはよかった。輸送隊の隊長はここにきているか?」
「はい、昨日補給作業をして、ここに留まっています。それと別の建物に女が三十二名捕らえられておりました。賊の頭は納屋に放り込んであります」
「分かった。輸送隊長を呼んでくれ」
「はい、あと、この吹毛剣ですが」
蕭尤は、吹毛剣を胡土児に差し出した。
「一応手入れをしておきましたが、磨いている内に、なにやら心を奪われるような気持になります。この剣は一体」
胡土児は吹毛剣を抜き放った。剣が鈍い光を放つ。
「この剣は宋建国の英雄、楊業が鍛冶と共に打ったという。打ち終わったとき、鍛冶は絶命していたそうだ。希代の名剣といえる」
胡土児は剣を鞘に納めた。
「到底、私に扱える剣ではないと思いましたね。では輸送隊長を呼んできます」
蕭尤が駆け去る。胡土児はもう一度吹毛剣を抜いてみた。剣を見てももう、何も湧き上がってはこなかった。
「胡土児殿、よくご無事で」
「隊長、いつもすまない。あの子は?」
「何とも言えません。とりあえず包頭に連れていかせました。あの城郭なら医者もいると思いますので。それと胡土児殿、お怪我をされているところを申し訳ありませんが、急がれた方がよろしいかと。どうやら玄旗隊が捕捉された気配です。南の原野に地方軍が頻繁に目撃されています」
「怪我?」
言われて胡土児は左肩に手を当てた。そういえば山門に向かってかけた時、矢を受けたような気がする。いつの間にか手当されていた。
「ここからまず南東に進んでください。百里(五十㎞)ほどで包頭市東の原野に出ます。そこから南に四十里、一気に駆けてください。すると黄河に出ますので、その河岸に舟を用意しておきます。黄河さえ渡ってしまえば、沙谷津まで身を隠しながら進むことはたやすいでしょう」
「わかった。南東百里原野に出たら、南に四十里だな。あと邑に生き残った村人と、ここにも三十二名の女が捕らえられている。この者たちの暮らし向きを整えてもらう事はできないか?」
「それはたやすいことです。というかすでに轟交賈は邑の救援に、部隊を派遣していますよ。女たちは私が邑までお送りいたしましょう」
胡土児はそれを聞いて、呆気にとられた。
「おい、轟交賈とはいったい何なんだ?」
「私にもよくわかりませんが、胡土児殿と玄旗隊が沙谷津に行くことは最重要案件です。あらゆる助力をするように言われています」
「誰に?」
「それは言えません」
隊長が微笑んで言った。
「なにやら腑に落ちないが、まあ今はいい。南東百里の原野を、南に四十里だな。なるべく急ごう。今日は討った賊を葬ってやりたい。邑で打った百の賊も、できれば葬ってもらいたい。玄旗隊は明日早朝、進発する」
「分かりました。ではご武運を」
隊長が駆け去っていく。胡土児は玄旗隊の作業に加わった。皆、賊を埋める穴を掘っている。穴を掘る道具などないので、木から太い枝を払って、地面に何度も打ち付け、柔らかくなった土を手で掻きだし、少しずつ掘っていった。そこに一体ずつ横たえていった。賊は皆若く、二十代から三十代くらいだろう。こいつらが働いた行為は許されるものではない。しかし賊に身を落とす理由も、あるのではないか。