「例えば(せき)騎兵(きへい)()(しん)率いる、梁山泊(りょうざんぱく)軍最強と(うた)われた赤騎兵に入団することは、梁山泊の兵にとって憧れだ。厳しい鍛錬で培った戦闘力と騎乗技術、華々しい戦果。激戦と呼ばれる戦場を縦横無尽に駆けまわる歓び。それは兵に誇りと矜持を与え、強くする」

「確かにその通りですね」

「ほかにも例えば、科挙に合格して将軍の地位を目指す。商人として富を成す。知府(長官)に出世して民を統べる。人が人として、どうしても成し得たい事。それを見つければ、人は強くなれる」

「それは志、ではないのですか?」

「違うな。これ等はいうなれば私念だ。そしてそれを、全て捨てねばならなかった人物がいる」

「それは」

 (こう)(しん)は椀の酒を一気に飲み干した。いつの間にか料理は無くなっていたが、あまり喰ったという気がしない。注いだ酒の水面だけが、ゆらゆらと揺れている。

楊令(ようれい)殿だ」

 宣凱がうつむいた。

「楊令殿が梁山泊の頭領となってから、いや、北の大地で幻王となり女真の地を駆け回るようになってから、今思うと湖寨(こさい)が陥落した時、宋江様に替天行道の旗を託された瞬間から、楊令殿は私念をすべて捨てねばならなかったのではないか」

「童貫を討ち、宋を倒す、というのは私念ではないのですか?」

「それが私念なら、梁山泊は童貫を討った時点でなくなっていただろう。楊令殿以外、誰もその先を考えていなかったのだからな。もっと言えば童貫を討ち、宋が倒せるなどと、だれも想像できなかったのだ。それだけ宋は強大だった」 

「楊令殿は、その先を考えておられた」

「終わりのない、何かを求めてな。俺は襤褸(ぼろ)になった高俅(こうきゅう)を見た時、人が抱く私念が、急に小さいもののように感じられた。終わりのあるものに腐心することの、(むな)しさのようなものにな」

「それでも人は、これからも私念に腐心するのでしょうね」

「私念が志でもいいのだ。ただ、楊令殿の生涯を思うと、たまらなく切ない気持ちになる。楊令殿に、もっと人らしい人生を送ってもらいたかった。それを思うと、風玄殿はよい人生を送られたな」

 宣凱が微笑んでいる。

「どうした?」

「もし今、梁山泊が存続していたら、候真殿を(しゅう)義庁(ぎちょう)に配属したでしょうね」

 宣凱が笑いながら、恐ろしいことを言った。

「俺を殺す気か?聚義庁にいたら、きっと気が触れるだろうな」

 そう言うと、お互い笑った。酒の甕が空いたので、宣凱が追加を頼んだ。宣凱がここまで酒に付き合うなど珍しい。候真も今日はとことん飲みたい気分になった。

「そういえば風玄殿の傍で、これを拾った」

 候真は懐から、親指の先程の鉄の玉を二個取り出し、卓に置いた。

「これは?」

 宣凱がのぞき込む。

「間違いない。()(しん)の鉄球だ」

「羅辰殿、生きていたのですか?」

「姿は見ていない。ただこの鉄球は、正確に兵士の首と、腰の骨を砕いていた。そんなことができるのは奴しかいない」

「羅辰殿は大戦の前、南宋の象山の造船所を独断で奇襲し、焼き払ったのですね。そして戻らなかった。あの焼き討ちがなかったら、張朔(ちょうさく)も安心して南の海域に、船団を送れなかったでしょう」

「確か奇襲した百五十の致死軍(ちしぐん)の内、戻ってきたのが三十名弱、その中に羅辰はいなかった。いなかったというだけで、死んだとは限らない、と思い続けてきた」

「捜索してみますか?」

「いや、あの頃、致死軍を二つに分け中華の北は俺が、南を羅辰が受け持っていた。それで言葉を交わすことは少なくなったが、俺は羅辰とは心を通わせていたと思っていたよ。それでも何の連絡もなくあの奇襲を決行したのだ。それには奴なりの想いや覚悟があったに違いない。必要があれば奴から姿を見せるだろう。今はそっとしておこう」

 候真は椀の酒を見つめながら、生きていた、と呟いた。