宣示庁には秦容と呼延凌、于姜、朱利、妻の公礼、そして交易の要件で小梁山にいた岳都の頭、姚平が着席した。宣示庁の壁には、先ほど秦容が放った狼牙棍が突き破った大穴が開いていて、狼牙棍がその穴に引っ掛かり、ぶら下がっている。
「なにか居心地が悪いな。お前、早く于姜殿を説得してくれよ」
呼延凌がまた呟いた。
「おい、言いたいことがあるなら、于姜殿にはっきり言え」
秦容が、呼延凌を肘で小突いた。
「で、この宣凱の書簡を見て、どちらが北に行く総大将かを、決めるためだったってのかい。くだらない」
于姜が宣凱からの書簡を読んで言った。
「くだらなくはない。もし金が南宋を制圧したら、次は豊かな物産があるこの小梁山を狙うに決まっている。岳都の貴石も狙われるだろう」
秦容が語気を荒げた。
「それにしたって二人だけで行って、どうにかなるものでもないだろう。蒲甘だっていつ大軍を送り込んでくるかわかりゃしないのに」
「蒲甘の軍は藩寛の軍で十分だ」
「それが油断だっていうのさ。蒲甘の兵が小梁山になだれ込んでくるところを、想像してごらんよ」
暫く場が、沈黙した。
「なら、岳都の兵を守備にまわすのはどうかな」
姚平が言った。
「岳家軍は大戦の後、半数は盡忠報国の志を求め、南宋に行った。もう半数は岳飛の作った岳都を離れられずに、今も岳都に残っている。粘り強いやつばかりなので、守りには適しているぞ。今、南宋は同盟国みたいなものだからな。北を心配する必要はない」
「それはありがたい」
秦容が思わず立ち上がった。が、于姜に睨まれて静かに座った。
「で、指揮は誰が執るのかい」
「旬浩しかおるまい。藩寛と組んで、許礼率いる南宋軍五万を打ち破った話は、今や語り草になっている」
呼延凌が周知の事実を、偉そうに言った。
「藩寛殿だってこっちで岳飛殿が育てた将だろ。小梁山の守りを、土地の人や岳都の兵にやってもらうなんて、なんとも情けない話だねえ」
「岳都と小梁山、土地の人々はもはや運命共同体。誰しも納得のするところでしょう」
朱利が言った。于姜はしばらく考える仕草をした。
「于姜殿、いいかな」
姚平が静かに言った。
「俺は昔、岳家軍を脱走した。戦で大怪我を負い、板で運ばれている途中に意識が戻り、自分で歩けることがわかると、急に戦が怖くなって逃げだしたんだ。脱走してひとりになってみると、今度は生きることが怖くなった。脱走した、という負い目を一生背負って生きていくことに。脱走して初めて気づいたんだ。岳家軍が自分の全てだった、てことに」
「簡潔に」
于姜が拳で卓を叩くと、姚平が肩をすくめ腰を少し浮かせた。
「よ、要するに二人に行かせてやってくれよって事さ。男にはな、時には理屈なんてなくても、やらなきゃならない時があるんだよ」
「姚平殿、お気持ち痛み入る。なにやら名言も飛び出したしな」
秦容が腕を組んで、頷きながら言った。
「公礼はどう思っているんだい。秦輝もまだ小さいだろう」
皆が公礼の方に向いた。公礼はずっと言いたいことを我慢していたのか、肩を震わせている。
「私は」
ようやく出た言葉には、胆力がこもっていた。顔が紅潮している。
「私は、毎日だらだら椰子の汁を啜っている夫を、これ以上見たくありません。北でも何でも行って、男とやらを磨いて来ればよいのです」
おお、という声がどこからか漏れた。公礼は言い終わると、外へ飛び出していった。
于姜が椅子に深く座り直し、一息ついた。表情が少し和らいだ気がする。
「こうなったら仕方がないね。二人で北へ行ってきな。総大将は呼延凌。理由はそこにぶら下がっている狼牙棍だ。いいね」
呼延凌が卓の下で拳を握った。秦容は何か言いかけたが、諦めて横を向いた。
「何をしているんだい、秦容。早く行きな」
秦容は何を言われているのか、一瞬分からなかったが、皆の視線を感じ、公礼のことだと悟って腰を上げた。
「折角だ。今夜は宴といこう。秦容殿、早く公礼を追いかけて」
朱利が急に元気になって言った。
「蒼翼は連れていくからな」
秦容はそう言って宣示庁を飛び出すと、練兵場の広場でうつむいている公礼を見つけた。こういう感じになった女の扱いを、秦容は知らなかったので、木の影で隠れていた。
宴は深夜まで続いた。南はとにかく食べ物が豊富にある。房芋(バナナ)は森に入ればいくらでも採れるし、椰子の実は作業時の水分補給にもってこいだ。答満林度の実は酸味があり、熟せば香辛料にもなる。河に行けば水牛も狩れるし、その皮から作った牛棒は、炙って酒の肴になる。甘蔗の搾り滓から造った甘蔗酒は度数も強く、交易品として北で重宝されている。だから南の宴はとにかく色鮮やかだ。中華と違って南の人々の表情は、いつも明るい。
秦容は宴の喧騒を避け、風通しの良い突き出しで、甘蔗酒を生でちびちびやっていた。今日はやけに月が輝いて見えた。
ふと見ると公礼がひとりで夜風に当たっているのが見え、秦容は腰を上げた。公礼がこちらに気づいて微笑んだ。
「また留守にしてすまない。公礼」
「いいのです。あなたはもう、人の何倍も命を燃やして生きてきたのです。これからもそうやって生きていくのでしょう」
「秦輝を頼む」
「無理だけは、なさらないで」
別れの言葉としては、あまりに少ない。しかし、お互いそれで充分だった。秦容は公礼をそっと抱き寄せ、軽く唇を重ねた。