狼牙棍を振り続けた。狼牙が風を切る。しかし、以前のような猛々しい力は感じられない。
老いたのだろうか。そう思っても差し支えない年齢には、差し掛かっている。だが、耶律慎思はとうに七十は越えていただろう。慎思の武は、およそ老いとは無縁の理の中にあった。
耶律慎思の大刀。その一撃が、秦容の頬に刻まれている。首が飛んだ、あの時そう思った。確かに、そう思ったのだ。しかし気付いた時、秦容は馬にうつ伏せになっていた。
戦が終わり、時が経って改めて思う。あの時、慎思はあえて首を飛ばさなかったのだ。
理由は明らかだった。慎思はこの秦容を、愛していたのだ。武人として、人として。
後日、慎思と再戦する。梁山砲が炸裂する戦場で、慎思と対峙した。晁蓋が自ら打ったといわれる托塔剣を手に、慎思と向き合った。晁蓋の無垢な気と一つになり、剣が風となった。その風は慎思の首筋を裂き、熄んだ。慎思の目は、その光が消えるまで、秦容を見つめ続けた。秦容も、その目に応えた。
何のために戦ったのか、後に胡土児に問われた。秦容は答えられなかった。何かのために戦ったのだ。秦容は短くそう答えた。あの頃、慎思に勝つことが志、そう信じて疑わなかった。その志が今、曖昧なものにり、心に在る。いくら狼牙棍を振っても、それが晴れることはなさそうだった。
呼延凌は一命をとりとめたが、再び戦場を駆けることはないだろう。心か身体か、何かが毀れ、思うように体が動かないらしい。剣は振れる。走ることも、馬に乗ることもできる。しかし思いと動きに常にずれがあり、とても戦うことができない、と言った。
医師の毛定が言った。戦いに、命を燃やしすぎたのだと。呼延凌は己を見つめるために、一人旅立っていった。どこへ行くとも、いつ戻るとも、言わなかった。今生の別れとなることも、秦容は覚悟していた。
中華から戦の気配は無くなった。金の烏禄、南宋の趙眘。二人の帝の間で、大戦になることはないだろうと、宣凱は訥々と語った。国境である淮水両岸では、今も激しい軍の訓練が行われているが、この緊張感が、逆に両国が和平を望んでいる表れだという。
金の帝だった海陵王に造反し殺害したとされる、金軍総帥の耶律阿列は罷免された。南宋軍を率い阿列の南進を阻止した岳霖も、その職を辞したという。彼らの後任が決まったという話は、未だ聞かない。両国の国力は疲弊し、しばらくは平和が続くだろう。秦容はただ、その宣凱の言葉を受け入れた。
秦容にとっても、戦が人生だった。
梁山泊には志があった。苛政と不正に喘ぐ民を救い世を糺す、という志が。その志は替天行道と表現され、梁山泊で受け継がれた。しかし替天行道が自分にも宿っていたとは思えない。父、秦明にはそれが宿っていたのだろうか。父は秦容が幼いころ、二竜山を最後まで守り抜き、その陥落と共に死んだ。もし死した者と語り合うことができるのなら、人はもっと人を深く知ることができるのだろうか。
梁山泊とは、志に共鳴した者たちの国だった。誰もがその志に共感し、死してもなお戦い続け、その死は多くの同志に語り継がれた。中にはそれを栄誉とし、死んでいった者もいる。彼らは、幸せのうちに逝けたのだろうか。
宣凱は、梁山泊の志は未だ潰えてはいないと言った。しかし、それを語ることはできないと。ならば替天行道の志は、誰とも共有できなくなったという事か。宣凱一人が、それを背負って生きていくという事なのか。数多の同志の死も、受け入れたうえで。
そして梁山泊の歴史の全て知る、史進が死んだ。梁山泊を知る、最後の一滴だった。最期は、胡土児の吹毛剣によって胸を貫かれたのだという。いきさつに関心はなかった。武人として死ねた史進に、秦容は静かに思いを寄せただけだ。
人は死ぬ。その宿命だけは、誰も逃れることはできない。その意味で、梁山泊は人の死に、彩を与え続けたのだろう。不条理に支配されて生きながらえるよりも、戦って抗って戦い抜いて死ぬ。そう思って戦い抜いた者は、きっと多いはずだ。
自分も、そうなるはずだった。
狼牙棍が、一度吠えた。
だが、死別や別れだけではなかった。
妻の公が、幼子の秦輝を抱いて、明日ここへ来るという。小梁山をこっそり抜け出し、この揚州まで駆けて来るのだとか。その距離およそ五千里(二千五百km)。公は高山出身の傭兵だった。どこまでも駆けていける体力がある。先程、梁山泊の飛脚が息を切らせながら知らせてきた。梁山泊が構築した、小梁山から中華全土への飛脚網はまだ生きている。公がここへ駆けるのと、飛脚網が走り継いで秦容へ伝えるのとの競争だったようだ。そして、飛脚網の方が、僅かに勝ったということだ。
秦容はどんな顔をして、公を迎えればよいのだろうか。妻子をほったらかしにした秦容に、きっと怒り狂っているだろう。秦輝が生まれてから、父親らしいことは何もしていない。むしろ知らせを受けない方が良かったとさえ思う。いっそ、今からどこかへ逃げた方がいいのだろうか。いや、男なら男らしく女の怒りを、正面から受け止めよう。逃げた先に、安堵があるとも思えない。
秦容は、公と秦輝の事を頭から追い払った。
この前、候真と蒼翼が訪ねてきた。候真は致死軍の隊長で、蒼翼は公と同じ高山出身の若者で秦容の従者をしていたが、慎思との戦の際に従者の任を解き、聚義庁預かりにした。狼牙棍が慎思に断たれたこともあるが、何より蒼翼に自我が芽生えたと感じたからだった。秦容の命というより、自らの意思で動くことがあった。その後、宣凱の命で岳霖のもとに派遣され、臨安府奪還作戦で功があったという。二人とも見違えるように、前向きな気を放つようになった。
二人で新しい致死軍を作るのだという。平和な世で、闇の組織の働きどころがあるのかと聞いたが、いつの世も裏の力は求められるのだと。そして新しい致死軍は、仲間の連携と信頼を柱として、生きることを最優先とする。以前のように動けない仲間に止めを刺すようなことは決してしない。そして聚義庁からは半ば独立し、民を闇から支える存在になる。と、候真は興奮気味に語った。もともと致死軍の活動についてはよく知らない秦容だったが、候真の語る言葉には、ある熱意と純粋さが感じられ、好ましく思えた。
意外な客が来た。張朔だ。今頃どこかの大海原を駆け巡っているのかと思っていたが、長江流域を調査し、新たな交易品を探しているのだという。轟交賈の情報網を使えばよさそうなものだが、気になる産物があれば、自らの目で確かめないと気が済まないらしい。最近妻にしたという張媛を伴っていたが、張媛は秦容には目もくれず、轟交館の牧で草をはむ馬や牛と戯れていた。張朔は小梁山や蒲甘(ミャンマー)のさらに西、印度と呼ばれる浮屠の国や、さらにその西を目指すという。まだ見ぬ国を思い描くと、眠れない夜が続くらしい。秦容が、たまには日本の十三湊で苦労する王清を気にかけてやれというと、張朔はばつの悪そうな笑みを浮かべた。
梁山泊という国は無くなった。しかし、若い者たちがそれぞれの志を胸に、これからの時代を生き抜こうとしている。それは形を変えた替天行道と言えるのだろうか。人が人らしく夢を見つけて生きていける。楊令の目指した国や民の姿が、そこにはあるのではないだろうか。戦に明け暮れ、殺し殺される人生を生きてきた秦容には、それはあまりに眩しすぎる光景だった。呼延凌もきっとそう感じるだろう。
そんな自分に、一体何が残されたというのだ。小梁山でさえ、手から離れた。
渾身の力で振った狼牙棍が、ぴたりと止まった。秦容の背後で佇む、気。怒りが込み上げてきた。殺し合いたい。全てを懸けて。
「あなたの気は、破滅に向かう気。ここで、断つ」
秦容は声の方へは振り返らず、狼牙棍を鎮めた。
「だまれ、阿列。替天行道を知らぬお前に、俺を語る資格はない」
「秦容殿、海陵王とおなじ道を歩もうとする、あなたを放ってはおけない」
「俺が、海陵王とおなじだと?」
秦容の怒りが、狼牙棍に込められた。
「私が丸腰なのは、振り返らずともわかっておられるはず。それでも、手に握る狼牙棍を捨てられない。それが、海陵王とおなじだというのです」
「小賢しい。この狼牙が貴様の頭を砕けば、これ以上戯言を聞かずに済む」
「あなたは危険な存在だ。あなたがその気になれば、中華全土を巻き込んだ戦乱の世が、ふたたび訪れる」
「俺が振り向きざま狼牙棍でお前の頭を砕き、俺は戦場に戻る。戦こそ俺の居場所だ」
「できません。今のあなたには」
「できるさ、ほんの少し、俺が動けば」
「させません。これ以上、哀しみを生まないために」
これ以上語る気はなかった。秦容は振り向きざま渾身の狼牙棍を振るった。声の距離から間合いは把握している。肉塊となり地に転がれ、阿列。
懐かしい風が吹いた気がした。地に転がったのは、狼牙だった。
阿列が手にしていたのは、あの大刀。
「父、耶律慎思の大刀です。この大刀に、武の気配はなかったはず。この大刀は、もはや武具ではないのです。秦容殿ほどのお方なら、それが分かるはずです」
耶律慎思。秦容は転がった狼牙に、目を落とした。懐かしい風が、秦容を撫でた。
「俺の負けだ、阿列。お前たち親子に、俺はついに勝てなかった」
「契丹族である父は、故郷の臨潢府でひっそりとその命を終えるはずでした。それが秦容殿や呼延凌殿と出会い、武人としての生を全うしたのです。それは、幸せなことだと思っています」
海陵王は女真族で軍の要職を固めたため、契丹族は軍での出世を望めなかった。総帥の兀朮が死んだため、臨時の措置として、契丹族の慎思や阿列に白羽の矢が立ったという経緯がある。
「俺も史進殿のように、静かに老いを受け入れるしかなさそうだな」
「そんなこともないですよ」
秦容が顔を上げると、阿列が後ろを振り返った。
そこにいたのは、秦輝を抱いた公だった。公は秦容を見ると、安堵したのか力が抜け倒れそうになった。秦容は咄嗟に二人を抱きかかえた。
「危ない状態でした。何せ小梁山から駆けてきたのですから」
「飛脚からは明日だと聞いていたが」
「脚を速めたのでしょう、あなたに会うために」
「二人は死域に入っていたようだ」
「秦輝殿も母の懐で揺られ続けるのは、苛酷だったことでしょう。よく耐え抜きました」
「お前が救ってくれたのか?阿列」
「気の流れを元に戻しました」
「そんなこともできるのか?」
「武医同根、武術と医術はおなじ理にあります。秦容殿にもできますよ」
阿列はそう言うと微笑んだ。
「俺が医者か?呼延凌が腹を抱えて転がるぞ」
秦容は、公と秦輝の顔を覗き込んだ。疲れ切っていはいるが、気はしっかりしていた。
「いくら何でも、無茶が過ぎる」
秦容がそう言うと、公が懐から折りたたまれた紙を一枚、取り出した。
「あなた、これを」
公が虚ろな声でそう言うと、秦容は紙を広げた。なにやら書が描かれている。
爸爸(父さん)。辛うじてそう見て取れた。
「これは」
「秦輝が、初めて字を書いたのですよ」
公が微笑んだ。
「まさか、これを俺に届けるために」
公が微かに頷くと、眼を閉じた。眠ったようだ。
秦容は、しばらく言葉を失った。
また、懐かしい風が吹いた気がした。
「阿列、俺は志というものを誤解していた」
阿列は、じっと秦容を見つめた。
「志とは、己の命をかけて成したいことを成すもの。そう思っていた。しかしそうではない。志とは、たとえその想いをすべて捨て去ることになったとしても、誰かのために、命を燃やすことなのだと」
「まさに私も、この大刀に触れた時、そう感じました」
秦容は、二人を抱えたまま立ち上がった。
この二人を抱えて立ち上がる、俺にはまだその力が残っているのだ。
秦容は、そう思った。