東京瘋癲酔人日記 -18ページ目

東京瘋癲酔人日記

夜の街で飲み歩く、私、安吾の日記。

キャバクラ、BAR、居酒屋などで見かけた様々な事柄を綴りながら、自作の小説も発表しています。

 1月22日「どこを向いて仕事をするのか」 のコメントに書いたが、私は、キャバクラで怒らないことにしている。灰皿が吸い殻でいっぱいになっても、グラスの酒が無くなっても、水割りをこぼされても、ほとんどのことでは怒らない。新人の子が気が付かないのは、ある意味当たり前だと思っているし、ある程度キャリアのある子でこういった基本動作ができない子は、怒ってみたところで直らないし、そういう子なら指名や場内をしないだけだ。
 キャバクラで飲むにあたって、キャストに場を作らせるというのは難しいものである。初めて客や多少癖のある客相手でも、場を作れるキャストというのは少ない。逆に言えばそういう子は、大概ナンバークラスである。新人やキャリアの浅いキャストは、初めての客やヘルプの客などに対し、場を作るのでなく場をつなぐために、どうしても通り一遍の「質問」から入らざるを得ない。
「今日は、ここで何軒目ですか?」
「晩ご飯、何、食べました?」
みたいな質問から入る。「とにかく何か話さなければ」という気持ちだけ先行しているせいだ。たまにキャラクターだけで引っ張れる子もいるが、こういった子は、大概売れっ子になっている。
 私は、初めての店や指名がいない店、またはヘルプがついたときは、自分で場を作るようにしている。自虐ギャグをいくつも重ね、笑わせて場を作る。これは「みんなに喜んでもらう」などという奉仕の精神でなく、計算なのだ。こうやって「安吾さんのテーブルはおもしろい」と思ってもらえれば、私のテーブルに付くことが「楽しい」とまでいかなくても、イヤではなくなる。そうすると、そういう豊かな気持ちで接客してもらえ、その余裕からキャストが自分で場を作れるので、結果的に私も楽しく過ごせるのだ。
 こういった「おこらない安吾さん」「おもしろい安吾さん」という情報が男子スタッフに浸透している店では、私はOJT担当となる。つまり、お水デビューの子やキャリアの浅い子の入店初日などにラッキーされるのである。「安吾さんにつけときゃ、とりあえずよかろう」というラッキーの計算である。私としてもそこまで見込まれれば、一肌脱がなくてはと思ってしまい(相変わらず、お調子者だ)、「お水って、こんなにおもしろいんだよ」という話と自虐ギャグで、緊張を解くようにしてる。場合によっては、「水割りを作り方」「火の付け方」「名刺の渡し方」までその場で教える(担当か、私は)。
 顔がこわばってたお水デビューの子が、私のテーブルについて15分かそこらで、笑顔で抜かれていくのをみると「いい仕事した」とつい自己陶酔してしまう(ほんと、アホだね)。
 その代わりといってはなんだが、実はこれも計算なのだ。こうやって男子スタッフに貸しを作ることで、多少の悪さは目をつぶってもらうようにしている(なんの悪さだ。当然、店外でのあれしかないのだが)。
 肝心の指名嬢に対してだが、これも基本は私が場を作るようにしている。指名嬢のタイプにもよるが、私は飲みに来てテンションあがっているが、仕事している指名嬢は、必ずしもギアが直ぐ入るとは限らない。そこで、私が地均しをするのだ。これも当然、私が楽しく飲みたいがための行動である。指名嬢に対しては、「店内で寝る」など甘えているところもあるので、最初ぐらいは、私ががんばりたい。

 こうやって書いてみると、私は計算高くて、イヤなヤツだなぁ、、、、、
 ことあるごとに吉行淳之介を「先生」として書いてきたが、もう一人の先生、と呼ぶより師匠と呼びたい方がいる。池波正太郎 である。

 梅安や鬼平などの作品はエンタテイメントとしても上質な上、いろいろなことを教えてくれるが、エッセイには、さらに大人の振るまいを教えてくれるヒントがたくさんあふれている。
 そんな池波師匠がエッセイのなかで触れていたのが、日本酒の三千盛 である。この酒は、たまたまある店で飲んで、その飲み口を非常に気に入って愛飲していたのだ。それを師匠が「好きな酒である」とエッセイに書いている。単純な私は、こんな共通項を見つけただけでも、調子に乗ってしますアホである。

 正月用に買った三千盛がまだあるので、今夜は街に出ず、梅安を読みながら一升瓶を空けてしまおう。マンデーブルーを明日に持ち越さない大人の知恵である。
 「客商売」と言う言葉がある。辞書をひくと「客の相手やもてなしが中心となる商売。旅館・飲食店・女給・芸者など。接客業。水商売。(大辞林)」とある。

 自宅の近所にあるラーメン屋は、昨今のブームをうけてできた店で「こだわりの麵」「特別の豚の豚骨を使用したスープ、、、」などの能書きがメニューにたくさん書いてある。元々ヘビースモーカーだから、精細な味などはわかるわけなく、食い物については、ある程度しかわからないし、それで満足している。このラーメン屋も特別うまいわけでもないけど、まずくもないので利用していた。
 ここはセットメニューで「餃子+半ライス」というのがあり、今日、それを頼んだ。ラーメンができあがったのだが、餃子が来ない。作っているのは若いスタッフだ。よく見ると素人の私より手つきがあやうく、できあがった餃子を鍋から皿に移すのに、手間取って、挙げ句の果てに皮が鍋にくっついて餃子が完全に崩壊している。オーナーらしき人がそれを見て、焼き方をスタッフに教えている。この時点で頭に「?」という文字が浮かんでいる。
 ラーメンをほぼ食べ終わる頃、タイマーが鳴って、若いスタッフが鍋から餃子を移そうとするが、また、一部が崩壊する。オーナーらしき人が崩壊した餃子を整え、私のところを持ってきて
 「申し訳ございません。こちらの商品はお代は頂きませんので」
という。私の頭には「!」という文字が浮かんでいたが、特に不満を言わずに「そうですか」と言って、崩壊した餃子を食べた。しかし、私は二度とこの店に行こうとは思わない。
 客をもてなすのが基本の商売で、客をスタッフの練習台にしている店に何の価値があるのだろうか。うまいラーメンというのも客のもてなしの一環であって、うまけりゃ他はどうでもよい、というのは明らかに間違いだ。
 某日、TARO でショーを見ていた。ある景が終わりショーメンがはけるときに、アリーナの空いていたテーブルにぶつかってしまい、グラスが飛んでクラッシュした。私は、その後ろのテーブルにいて、クラッシュしたグラスの元(つまり破片でないという意味)が足下に転がってきた。景が終わってはけるときなので、当然、店内は真っ暗に近い。ボーイやマネジャーが飛んできて、携帯やライターを懐中電灯代わりにして、クラッシュしたグラスを片付け始めた。ショースタッフが気を利かせて、薄く落とした照明をクラッシュしたあたりにあてている。
 誤って起こったことに対して、必要以上に謝られるのは、趣味じゃないし、クラッシュしたグラスが足下にあるぐらいで切れたりしない。水割りをこぼされても怒らないほど、私は温厚なのである(ほんとです。嘘じゃないって)。男子スタッフたちは、ショーメンが通るあたりを、文字通りはいつくばって掃除している。しかし、私の足下には誰も寄ってこない。ショーメンの通り道がきれいになったと思った頃、男子スタッフがはけようとするので「ちょっと」と呼びかけると、まるで気づかない。横についていた指名嬢が男子スタッフにグラスの件をつげて、やっと片づけてくれた。ショーが終わり、チェックして帰ったが、一言も挨拶がなかった。
 私は前述したように、必要以上に謝ってほしいわけではない。しかし「すいませんでした。お召し物など大丈夫でしたか」の一言はあるべきだ。それよりも私が瞠目したのは、「客のこと」より「ショーメンの導線」を優先させた男子スタッフの心理である。確かに、ショーメンが動き回る導線にガラスの破片が落ちていたら危ない。きれいにすべきである。だからといって「おもてなししている客」を一切省みないというのは、店がどこを向いて商売をしているかをよく示している。
 こういった心理から生まれる、それ自体は些少な様々な事柄に客が反応して、今のTAROの沈滞した状態を生んでいるのではないだろうか。

 TAROの指名嬢は、かなり気に入っているので、ラーメン屋同様に「二度と行かない」とは、言わない。
 、、、、、、ヨワヨワな客だなぁ、私。