ロバートブラウンというウイスキーをご存じだろうか。
16歳でスナックデビューした私が、本格的に飲み始めたのは、浪人時代だった。ちなみに、16歳の当時、スナックでのカラオケは8トラであり、ボックスシートがいくつもあるような広さの店では、有線に合わせてママとチークダンスを踊ったりしていた。なかなか風情があったものである。
高校三年のときに地元にできたスナック「ボルグ」は、昼間は喫茶店で夜はスナックという、ある意味、王道の店であった。この「ボルグ」は、トップスピンで一世を風靡したプロテニスプレーヤー「ビヨルン・ボルグ」からとった名前であり、スナックを経営するマスターとママ(夫がマスターで妻がママという、これも典型)のうち、ママがテニスをやっていたせいである。時代もテニスブームであり、水商売のネーミングセンスが良く現れた店名である。
高校時代は、ほとんど昼間しか行かなかったが、浪人してからは夜の部=スナックに頻繁に顔を出すようになり、翌年、大学に入ってから卒業し、サラリーマンになってもボルグ通いは続いた。19歳から地元を離れる29歳までの10年間、ここで何本のボトルを飲んだことだろうか。
スナックの場合、サントリー系(オールド/リザーブあたり)かニッカ系(スーパーニッカ)のウイスキーが中心であった。しかし、ビールメーカーとしてその当時はナンバーワンであったキリンが、洋酒事業(キリンシーグラムというシーグラム社との合弁事業)に乗り出して発売したのが「ロバートブラウン」である。当時、私は相当酒に強く、ボルグに一回行くとボトル半分以上は飲んでいたため、ほぼ毎回新しい「ロバートブラウン」をキープしていた。月に最低二回は顔を出していたので、10年で200本以上のロバートブラウンをボルグで飲んでいた計算になる。
ボルグは一部ボックス席もあったが、カウンターが中心の店である。マスターは厨房にこもって焼きそばなんかを作っており、たまに顔を出して競馬やパチンコの話を客としていた。カウンターは詰めれば15~6人ぐらい入れただろうか、そこにママ以外に3~4人のアルバイトがいて接客をする。接客はカウンター越しが中心だが、客が少ないときは横に座ったりもする。
アルバイトの子は、高校時代遊んでいてそのまま就職も進学もせずなんとなく過ごしてるタイプと学生アルバイトであった。私鉄沿線の繁華街にはまだキャバクラは存在せず、お水バイト=スナックであった。アルバイトであるため出勤日は少なく、とはいってもキャバクラほど在籍があるわけではないので、10人前後が入れ替わり働いていた。
カウンターで飲むわけだから隣には見知らぬ客もいるわけで、おおっぴらに口説くこともできず、また、連絡方法は自宅の電話しかなかったわけである。スナックだから指名などもなく、当然働いている子も時給だけだから、営業なども一切しない。その上、ママやマスターが目を光らせているわけであり、非常に厳しい条件ではある。しかし、それでも口説くのである。「安吾(ここは当然本名)さん、口説いちゃダメだよ」とママやマスターに怒られながらも。
10年通って、成果はゼロではないが、切なくなる結果である。指名制度があるわけでもないので、女の子も生身で、「お水としての計算」などなく、非常にダイレクトに「男としての魅力」を問われるわけで、シビアな戦いだった。このボルグ以外も何軒かのスナックで飲んでおり、同じようなことをしていた。
ボルグに通っていた最後の頃には、私鉄沿線にもキャバクラが出来はじめ、マスターに「偵察してきてよ」といわれて、飲みに行き、すっかり気に入り、ボルグの回数が減ってしまった。
アルバイトの子達も、スナックからキャバクラに流れていき、客も私と同じように流れていったため、私が地元を離れた後、ボルグはなくなってしまったはずだ。
指名の駆け引きがないシビアな戦いをスナックで知り、駆け引きできるキャバクラに流れた私であるが、最近は、またスナックの駆け引きのない戦いが懐かしく感じる。今、私鉄沿線のスナックには、アルバイトの女の子はもういない。アルバイトのお母さんと外人さんばかりである。
どこかに、あの頃のようなスナックはないだろうか。