何冊かの文学賞通過指南書を読んだり、いくつかの文学賞応募者用のウェブサイトを閲覧した結果、僕には一次選考のみであれば通過できるようなノウハウが身についたと思っている。大事なことは以下の二つだ。
1:応募規定を満たしていること
2:1を満たした上で、それが「小説」と呼べる代物になっていること
これだけだ。
1について、「そんなの当たり前だろう。ブログに書く必要なんてない」という声が聞こえてきそうだ。僕自身、群像新人賞で初めての一次落ちを経験するまではそう思っていた。
案外、応募規定は細かいのだ。どうしてここまで細かくする必要があるのだろう?と首をかしげたくなるものもある。だけど、確かに、必要なプロセスの方が多い気はするんだな。
そして、どれくらいの作品が応募規定を満たさずに落とされているのかは分からないが、個人的には、十個に一個くらいじゃないだろうかとあたりをつけている。根拠は?と聞かれたら、俺の勘としか言えない。申し訳ない。
ただ、本当に応募規定は細かい。
小説を書いている時点で、あなたはある種、コミュ障なのだ。そのことを自覚しないといけない。なぜなら小説は普通のコミュニケーションでは伝えきれない何かがあるからこそ、書かれ始めるものだからだ。あなたは、伝えたい何かを持ち、それが、小説という形でしか伝えられないからこそ、小説を書くのだろう。
ということは、小説以外のコミュニケーションは、それほどうまくはないのでは?
だから、編集部とのキャッチボールにはすごく慎重にならないといけない。少なくとも、「自分はこの手のコミュニケーションが苦手なのだ」という自覚くらいは最低限、持っておいた方がいいだろう。
そして、2について。
これは、申し訳ないのだけれど、実際に一次落ちした他の人の原稿をチラチラと読んでみて、(そういう機会をたまたまもらうことができた)はっきりと分かったのだが、そういったものは中身云々以前に、小説の形を成していない。あるいは、小説の形を成していることが、すぐには分からない。もちろん、すぐには分からないだけで小説の形を成している代物であれば、他の文学賞で受賞することもある。
小説の形をしている、というのは、例えばヘッドホッピング(一つの章の中で視点がコロコロと移り変わること)や、文章のねじれ(いつの間にか主語が入れ替わっていること)、あるいは設定上の破綻(酷いものに関しては、登場人物の性別がいつの間にか入れ替わっているものすらもあった)、回収し忘れた伏線などがなく、「完成されている」ことだ。
ここまでは才能ではなく、技術だ。僕が「技術」と呼ぶとき、それは努力により誰もが到達可能な領域を指す。
これだけで一次選考は通る。実際、すばる文学賞の一次を通過した僕の作品は酷いものだった。小説の形をしてはいるけれど、中身は完全に空っぽなのだ。中身を詰めたつもりもない。書き終わった後で、巣箱に鳩が住みつくように、何かが入ってやしないかと期待を込めて読み返してみたけれど、やはり空っぽのままだった。
一次選考のみ通過した作品を参考までにkindle direct publishing に挙げておく。いつか、それが確かな黒歴史になることを祈って。kindle umlimitedに入っているので、ただで読める人は読めます。そうでなくても百円で読めます。