すばる文学賞の一次選考を通過した後、二次選考で落選した作品をweb上(kindle)に挙げた。

 

 そして、そのURLをこのブログに貼った日、及びその翌日、購入して下さった方が二人ほどいらっしゃったようです。

 (Kindle Direct Publishingにはそのようにレポートを表示する機能があります)

 

 その方達や、あるいはこれから購入してくださる方に証拠のようなものを提示しておこうと思ってこのブログを書きました。

 

 初め、このように購入者がすぐ現れることを想定していませんでしたので(すみません)踏み込んだ話や、証拠とかについては「後でいっか」と思ってました。

 

 

 これ、勝手に載せていいのか分かりませんが、著作物の一部引用なので、許してください。(『すばる10月号』(集英社))

 真ん中の列の左端から二番目が僕の作品です。「新山健吾(僕のペンネーム)」です。

 

 僕の作品を購入してくださった方は、ここで首を傾げられるかもしれません。

「あれ?タイトルが違ったぞ?」と言う風に。

 

 申し訳ありません。この作品の本来のタイトルは”C型の街”でした。それを間違って仮題のまま応募してしまったんですよ。実際、「大切なものを包み隠して」ってひどいタイトルじゃないですか笑

 

 実はこの表紙、僕が勝手に撮った写真に、勝手に書き込みを入れて作りました。

「作者名くらい入れろよ笑」と言うツッコミ、もっともです。

 ただ、この作品よりも前に書いた作品については、タイトルすらも書き込まれていないフリー素材の写真があるだけなので、それと比べると進歩してます。(作家になりたがる人は、基本的にどこか変です笑)

 

 そういうわけで、中身は「一次選考を通過できるが、二次選考で落ちる作品」という資料価値を持ちます。けっこう、世の中に出回りにくいんじゃないですかね、そういうもの。

 ただ、小説としての価値はないだろうと思います。

 

 数が少ない、というだけのことで価値を持つものが世の中にはいくつかあります。僕のこの小説(正確に言えば資料)もそうだ、とは言いませんが笑

 

 小説のリンクです。2020.5.8現在、全ての感想や誹謗中傷を受けつけています。

 

https://www.amazon.co.jp/C%E5%9E%8B%E3%81%AE%E8%A1%97-%E6%96%B0%E5%B1%B1%E5%81%A5%E5%90%BE-ebook/dp/B0871XD9C3

 

 

 

 

 作家になるための従来のルートは、新人賞を獲る、というものしかなかった。村上春樹氏も新人賞受賞のことを文筆家になるための「入場券」と表現している。

 

 僕の知る限りにおいては「君の膵臓を食べたい」の住野よる氏は、そうでない方法でメジャーになった珍しいタイプの作家だ。新人賞で一次選考落ちした作品がweb上で共感を呼び、あそこまで全体を巻き込んだ話になった。

 

 僕に言わせれば

 

「ノルウェイの森」→「世界の中心で、愛を叫ぶ」→「君の膵臓を食べたい」

 

 三つを時系列に並べてみたのだが、これらは同じテーマを扱っているように思える。作家ごとに少しずつ変数設定が異なるのだが、基本的には同じだ。そして、僕なりの主観になるかもしれないのだが、文学賞受けのいい順番でもある。そして、僕が感じ取ることのできる、作品の深みの順でもある。

 

 「君の膵臓を食べたい」については、僕は最初の数ページで「読むのをやめようかな」と思ってしまったのを覚えている。あまりにも作為的な主人公像に呆れてしまったから、というのがある。「こんなふうに考えるやつ、本当にいるのかよ」というものだ。

 

 しかし、後半まで読んでいくと、だんだんと、「まぁ、ありかな」と思えるようになってくる。そして、ラストで主人公の男の子がかつてのあり方から抜け出し、違ったありようへと移るのを見て「読んで良かったな」と思える。

 

 ただ、ヒロインの衝撃的な死については、ちょっとやっぱり覚めてしまうのだけれど。

 

 中学生の女の子に、この作品について尋ねてみると、主人公のあり方にそれほど違和感を持つわけでもないようなので、やはり、僕とは異なった視座に立つのだろう。その場所から、僕と違ったものを、違った領域の中に見る。そして僕自身もまた、自分が中学生だった頃の日記を読み返し「まぁ、あの頃の僕にとって見えていた“人間“の領域については、さして不自然さを感じないのかもしれない」と思う。

 

 読者層次第で、やはり作品を書き換えるべきなのだろう。同じテーマであったとしても、だ。プロットや文章、登場人物の作為性についても。

 

 ただ、それなりに分かりやすいが故に、不自然になりつつある作品については、やがて読まれなくなっていくだろうと覚悟して書き始めないといけないだろう。

 自然さや深みを追求するがあまり、分かりにくい作品については、そもそもの始めから誰にも読まれないことを覚悟しないといけないだろう。

 

 理想を言えば、どちらの種類の小説も書けたらいいのだが。

 

 

 ここまでが前置きだというと、驚かれるかもしれない。一部の人間からは文章構成の才能がないと笑われるかもしれない。

 

 それでもあえて、ここまでを前置きと言わせていただいて、本題に入る。

 

 僕はここに、すばる文学賞の一次選考を通過した作品のリンクを貼ってみようと思う。今のところkindleで最低価格掲載をしているが、無料で読めるサイトに登録しようかと思っている。

 そのリンクもそのうち貼ろうと思う。

 

 

https://www.amazon.co.jp/C%E5%9E%8B%E3%81%AE%E8%A1%97-%E6%96%B0%E5%B1%B1%E5%81%A5%E5%90%BE-ebook/dp/B0871XD9C3/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=C%E5%9E%8B%E3%81%AE%E8%A1%97&qid=1588821894&s=digital-text&sr=1-1

 ここ最近、同郷の友人たちとビデオ通話をしている。五人で集まり、適当に話す。五人とも、黙ってそれぞれ、好きなことをしていることもある。

 

 

 僕は中学生の三年間を八人部屋で過ごした。その時のことをふと思い出す。僕らのビデオ通話の始まり方は以下のようなものだった。

 

 僕が勝手にグループ通話を始める。初めは誰もいないけれど、そのうち、一人、二人と顔を出す。いつの間にか全員が揃っている。

 

 そのような形でグループ通話をした。まるで、八人部屋で過ごしていた中学時代のようだ。

 八人みんながそれぞれ、適当に過ごしている。誰か一人がふと話し始め、それに誰か一人が答える。いつの間にか全員で、舎監に見つかったら怒られてしまうような遊びをする。

 

 そのころを思い出して僕は懐かしい気分に浸ることができた。

 数学は命題を扱うものだ。それは、逆にすることもできる。命題を扱う以上、そこに数学を当てはめることが可能だ、と。そんなふうに数学と命題は一体のものなわけだが、その命題というのは、『真偽をはっきりと分けられるもの』になる。要するに白黒付けられるもの。

 

 さて、そのように考えた上で、数学で取り扱われる命題が二種類しかないという冒頭の話に戻ろうと思う。

 

 命題ってのは、

 

1.全称命題

2.特称命題

 

 の、どちらかに別れる。全称命題ってのは「一般の△△について〇〇が成り立つ」っていうのを主張するもので、特称命題ってのは「ある特定の△△について〇〇が成り立つ」ってのを主張するものだ。

 受験とかで出てくる数学の問題はこれらを組み合わせて作られているけれど、ミクロに見れば(つまり、問題解決のプロセスを細かに分解すれば)必ず、どちらかを扱っている。

 

 これって、文章についても言えるんじゃないかってのが、理系東大生で、かつ小説家志望の僕の考え。

 

 つまり、文学ってのは(ごめん、かなり大袈裟な表現。僕自身が、この言葉を使うのに値しないのではないか、と内省する謙虚さくらいは持ち合わせているつもり。でもあえて言わせてもらう)人間を扱うものである。そして、人間ってのを『全称命題的』に扱うのが評論で、『特称命題的に』扱うのが小説な気がするんだな。人間ってなんですか?っていう問いには、僕は答えられない。白黒つけられない曖昧なもの、という他にはね。

 

 まぁ、いいや。

 

 つまり、「一般の人間について○○が成り立つ」っていう主張をするのが評論で、「ある特定の人間について〇〇が成り立つ」って主張するのが小説。

 

 実際の文学はその両者が混ざった形で展開されていく。僕は小説を書くけれど、部分を抜き出してくれば評論的な要素もある。(なるべく減らすよう心がけているけれど)

 その逆もおそらく成り立つ。評論にも小説的な部分が組み込まれている。

 

 結論として何が言いたいのかっていうと、

 

 全称命題的なことを考える時と、特称命題的なことを考えているときは、頭の切り替えをした方がうまくいくことが多いってこと。これは全称命題として言っているつもり。特称命題的に言えば、僕は随分とこの切り替えに助けられている、ということ。

 

 誰にむけて書いているわけでもないけれど笑

 両価性があるからこそ、人は悩む、と言った話を聞く事がある。両価性、とは、「あちらを立てればこちらが立たず」ということだ。そう言った両価性の間に挟まれるからこそ、人は悩むのだ。

 

 僕が今、挟まって苦しんでいる両価性は以下のようなものだ。

 

「あくまで自然な物語にする必要がある。(僕の信条だ。)一方で、枚数制限を守らなくてはならないので、物語のサイズをコントロールする必要がある。(不自然になるかもしれない)」

 この両価性の中で僕は苦しんでいる訳だ。あくまで自然な物語を書きたい。でも、そうしてしまうと枚数制限を突き破ってしまう可能性がある。

 

 今、僕はそのことで結構悩んでいる。小説を書いてみたことのある人だったら頷いてくれるんじゃないなな?そうでない人には分かりづらいかもしれないけれど。

 

 これはね、試験とかで「点数は取りたいけれど、時間制限がある」という制約とは質的に異なる。点数が取りたいなら時間いっぱい解答すればいいだけの話なのだ。

 これは、あくまで自然な物語を書き、それを、制限字数内に納めなくてはならないという困難さだ。

 

 思った以上にこれが難しい。今回、オール読物新人賞にむけて推敲している作品は、かなりの確率で枚数オーバーになってしまいそうな気がする。百枚以内ってのは、結構難しい。これまで新人賞に応募してきた作品は全て200枚を超えているからだ。

 最悪の場合、一部分を切り取ってくる、という形になるのだろうか?

 

やっぱり、新人賞通過のための条件として最も難しいのが「応募規定を満たすこと」なのかもしれない。