[背景は、主役以上に主役について語ります]

 

 [AIにまつわるこんな話]

(ここで言うAIは、ニューラリネットワークによるディープラーニングを指す)

 

 血縁関係を評価するAIは人間の顔よりも背景を重視していた。

 

 以下、もう少し細かく書く。

 

 

[血縁関係を顔写真から判定するAI]

 

 そのAIは大量の教師データによる訓練で、二人の人間の血のつながりを、かなり正確に言い当てられるようになった、という。

 

 

[ニューラルネットワークの大まかな仕組み]

 

 多数の入力層の要素に対して、それぞれ重みづけをしていって、次の層に関連させる。そして、次の層でも、入力層の要素によって構成された要素間に重みづけをする。そうやって最終的な出力層に至る。

 

 

[血縁関係を評価するAIが重視していたもの]

 さて

 

 このようにして出来上がった評価体系を、評価することができる。

 このAIは一体何を重視しているのかを調べる方法がある。

 

 血縁関係を顔写真から判定するAIは何を重視していたか。これが、本人の顔ではなく、背景だったわけだ。

 

 親戚関係にあれば、顔以上に、背景に映り込むものが似てくる。同じ場所に住んでいたり、同じような建物に住んでいたり、同じようなぬいぐるみが飾ってあったり、、、

 

 その結果、僕らの血縁関係は、僕ら自身ではなくむしろ、その背景によって明らかにされる。

 

[ニューラルネットワークのお手本は人間の脳ミソ]

 そして、人間の視覚情報処理も、ディープラーニングと似た仕組みに依っている。そもそも、ディープラーニングを担うニューラルネットワークは人間の脳ミソを真似て作られたものだからだ。

 かつての飛行機が鳥を模倣して作られたのと同じだ。

 

 そういうわけで、僕らも無意識に「画面に映り込む背景」に依って面談者を理解している可能性が高い。

(ニューラルネットワークは入力層、隠れ層、出力層の三層に別れるわけだが、隠れ層が僕らの無意識に対応していると考えられる)

 

 

[”縁起”の考え方]

 これって結構、興味深いと思うわけ。仏教で言う、縁起の思想そのものじゃないかって。僕らを、僕らたらしめるものは周囲にある事物との関係性である。

 要するに全ては、”縁”に依って”起こる”ものなのだ。

 

 そのことをあからさまに(形式的に)示してくれたのが上記のAIで、体験的に示唆してくれるのがリモート面談と、それをめぐる混乱なのではないだろうか?

 

[バーチャル背景ってほっとするよね]

 部屋が映し出されることをみんな嫌う。自分が映ることはそれほど嫌ではないのに。

 そのことにはちゃんと理由がある。自分の周囲の事物は、自分自身以上に自分について語るからだ。

 

 

 驚いたことに、”群像新人賞”というワードでgoogle検索してみると、僕の書いたブログが一ページ目に出てくる。

 

 群像新人賞へ向けた作品を練ってみようかと思い立って、応募規定を確認しに行った時に、たまたま見覚えのあるタイトルが目に入ったのだ。

 

 どうして僕の書いた「群像新人賞の一次選考に落ちちゃった件」が一ページ目に出てくるのか。

 

 それはひとえに、同じようなブログを書いている人が極端に少ないからだろう。

 

 文学賞は二千作品ほどが毎回、応募される。そのうち、ざっくり百作品が一次選考を通過する。僕はまだそこまでしか行ったことがない。

 その中でさらに、ブログを書いている人間は、、、と絞っていくと、確かにすごく少ない人数になるんじゃないかな。それにあからさまに一次落選を語る人間も少ないだろう、、、

 

 さて、そのことを僕はとても寂しい気持ちで眺めている。もう少し、小説を書く人間が多くいてくれると、そのことについて話せるのに、と。

 もちろん、何人か小説を書いている大学生に(場合によっては高校生に)会ったことはある。話したこともある。

 でも、どういうわけかみんなあくまで短編小説しか書いていない。

 

 僕はまだ、自分と同じくらいの年齢で、作家になれていなくて、それでも長編小説を書き続けているという人間に会ったことがない。そのことが少し寂しい。

 

 

 今はどうせ自粛で家の中に閉じこもっていないといけないんだから、長編小説を書いてみたらどうでしょう?と僕が提案してもいいものだろうか?

 同題part1では、謝罪文というか、言い訳?を書いた。僕の作品を買ってくれた二人の人へ向けて、だ。

 

 ここでは、作品そのものについて反省してみようと思う。

 

 そう書くとあまりにも漠然としてしまうので、ここではもっと絞って(やや専門的?な話になってしまうのだが)

 

 ”額縁小説”

 

 について話してみようかと思う。

 

 額縁小説、というのはどんなものなのかというと、

 

「ラストで冒頭に戻る」

 

 ような構成になっている作品のことだ。

 

 具体的に言うと(この場で適当に僕が話を書きます笑)

 

<朝起きとた時、僕は、僕がまだ現実の世界の延長に閉じ込められているのだ、ということにため息をついた。この場所は、僕の抜け出したい世界なのだ。なぜなら、僕がこの世界で唯一、美しいと思った存在__サチが__いなくなってしまったからだ。

 

(ここで、死にゆくサチと、それをなんとか阻止しようと奔走する主人公が描かれる。どういうわけか、死にゆく本人であるサチの方がむしろ死に無頓着で、主人公があたふたする、という話が多い。まぁ、一見するとそう見えうるってことなんだけど。)

 

 僕は自分自身がどこにいるのかも分からず、ただ、サチに向かって手を伸ばしていた。しかし、それはやはり夢だったのだ。仰向けになり、四つの壁に囲われた平面を見つめると、僕には天井と壁の区別がつない。彼女は、その向こう側へと旅立っていったというのに。

 僕はため息をつき、天井に向かって手を伸ばした。その手は、何もつかめなかったのだが、カーテンの隙間を通り抜けてきた朝日に、思わず目を細めてしまうほど眩しく照らされた。>

 

以上、よくある額縁小説の典型例だ。

 

 額縁小説には三つのデメリットがある。

・月並みな手法に伴う、「またかよ」って感覚

・物語が小さく収まりやすい(冒頭のシーンとの矛盾が許されないので)

・いきなりネタバレ状態

 

 その代わり、三つのメリットがある

・書いてる側からすると、「決まったぜ」って感じがする

・物語が暴走しないで済む(暴走すると、最悪の場合、ラストに至らない)

・書き直しの手間が大幅に削減できる(そもそも脱線をあまりしないので)

 

 

 こんなふうに思いつくメリット・デメリットを並べてみると、どうも額縁小説には読者側にはあまりメリットがなく、デメリットが多いが、作者にとってはメリットが多いということになる。

 

 というわけで、読者のことを考える作者というスタンスをとるならなるべく額縁小説は避けた方がいいし、

読者のことは考えず、書きたいものを書くのだ、というスタンスをとるなら、額縁小説は魅力的だ。

 

 どちらがいいのだろう?ちなみに、僕が書いた小説は額縁小説の典型例だった。ただし、人は死にません。

 

 この小説は、僕が初めて作品という形まで仕上げた小説なので、一番ハードルの低い形態になってしまった、と考えることができる。僕は初心者なので、初心者らしく、謙虚に書きやすい形を選択したのだ。(意識していたわけではないが)

 ただ、抽象的な物事について語るようなタイプの小説については、額縁型の方がいいのかな、とも思う。そうしないと、読者はちょっと不安になるのだ。「あれ?最後まで読み通せるかな」みたいに。

 

 あと、そういえば「ノルウェイの森」も「世界の中心で、愛を叫ぶ」も「君の膵臓を食べたい」も額縁小説だ。なんなら「恋空」もそうだ。それらに共通するのは主要人物の死だ。主人公の愛する人間の死だ。

 

 新たな疑問がまた生まれたので、今度、考察してみようと思う。

 

 えーと、話を元に戻すと、

 

 一次選考を通りたいのなら、あまり高望みをせずに額縁小説という形を採用すればいい(結論)

 

 もしかしたら、って話なんだけれど、一次選考だけなら「〇〇すれば、誰でも通れます」みたいな指南書が書けるのかもしれないと個人的には思っている。まぁ、「一次選考だけでいいので、通りたいです!」という人間がどれほどいるのかは分からないけれど笑

 文学部に通う友人がいる。保育所の頃からの友人だ。彼は卒業論文に夏目漱石の「夢十夜」を選んだ。そして、あれこれと頑張って書いたみたいなんだけれど、僕にその論文を読ませてはくれなかった。

 

 さて

 

 彼は、”テキスト”を作者から切り離して考える、という立場をとることにしたらしい。僕に言わせれば、そうすることで卒論を書くのは楽になるだろうけれど、

 

「本当にそれでいいの?」

 

 である。

 

 僕はまだ小説家になれていないけれど、それでも僕という人間と、僕の作品が密接に結びついていることは認めざるを得ない。

 

 それがましてや小説家として名を残すほど小説を書いたのだとしたら(あれ?ちょっと表現がおかしい?)小説と小説家は切り離せなくなる

 

 もちろん、サスペンスの作者が人を殺したことがある、とかそういう極論を言ってるんじゃなくて、小説を読む時には、作家についても考えたほうがより深く読めるんじゃないかなってことです笑

 

 広島に引っ越して行った友人が、僕に映画のチケットをくれた。早稲田松竹という映画館限定のチケットだ。

 

 小学生の頃からの友人とともに(なぜか広島に行った友人は二人分のチケットをくれたのだ)その映画を観に行った。まぁ、一緒に観に行った友達は隣で爆睡してたんだけどね。スケベな友達なので、濡れ場っぽいシーンだけつついて起こしてあげたんだけど、またすぐ寝た。

 

 その時に観た映画は「君の鳥はうたえる」という、佐藤泰志原作の作品。この小説のタイトルはThe Beatlesの「And Your Bird Can Sing」からきている。

 

 歌詞についての事細かな解説は、僕の役割ではない。だけど、ここに大まかな解釈を書かせて欲しい。僕の書きたい小説のテーマと重なる部分があるからだ。(少なくとも僕はそう思っている)

 

 とても調子が良くて、全てを手に入れることができたとしても、私は手に入らない。

 とても調子が悪くて、全てを失ったとしても、私はあなたのそばにいる。

 

 僕が聞くと、この歌は、そういう歌に聞こえる。僕に言わせれば「本物の承認」だ。

 

 ちなみに、承認と称賛は違う。

 

 調子が良い時、1万人のファンがいたとする。そのファンは、きっと称賛してくれるだろう。でも、調子が悪くなるとそっぽをむく。

 調子が悪い時にも一緒にいてくれる人がいたとする。その人は承認してくれているのだ。調子が良くなるとまた、離れて行ってしまうのかもしれないけれど。

 

 僕は、そういう「本物の承認のあり方」を書きたいと思っている。僕なんかがテーマにしてもいいものだろうか、と思ったりもするんだけど、まぁ、これをテーマに据えている人は僕だけではないと思う。だから、僕もテーマとして掲げていいんじゃないかな?オリジナリティは、他の部分で(主に、技術的側面で)出していくことにするよ。

 

 おっと、前置きが長くなった。

 

 佐藤泰志、という作家は1949年に生まれ、1981年に作家になり、1990年に自殺している。本当は、こんなにシンプルに人の一生について書きたくはない。全ての人間は生まれて、生きて、死ぬ。みんながそうだ。だから、小説家になりたいなら、もっと事細かに書いていかないといけない。でも、ここでは少しばかり、襟を緩めさせて欲しい。

 

 さて

 

 僕は映画を観た後に、この作家さんの小説を読み、あれこれと考えさせられたわけだ。

 

 この作品の主人公たちは、三人組で、一つ屋根の下的共同性の中を生きる。これもまた、僕の書いた作品と似ている。ま、いいや。そういうあり方は、はっきり言って

 

「社会常識的に、あり得ない」

 

 そして、社会常識の外側に僕は憧れる。

 

 それでも僕は、社会常識の中にいる。なぜなら、楽だからだ。

 ひと昔前までは「楽で安全」と言っていたのだが、必ずしも「安全」とは言い難くなってきたみたいなので、「楽だ」とだけ言っておく。

 その代わり、社会常識の内側にいると、僕は少しずつ死んでいくことになる。それは内省的に自己を観察して、常々思うことだ。

 

 でもね、”社会常識の外側で生き続けることはできない”ってことにも気づいているってわけ。

 

 だから、その両者を行ったり来たりするように生きているのが今なんだけれど、こんな風に、社会常識の外で生きる人たちを描いた作家さんが、最後は自殺しているのを知ると、やるせない気分になる。

 

 僕の目指す先に、崖が待っているから、とかそういうことじゃない。

 

 ただ、この小説を読み終わった時、作者と友達になりたい、と僕は心の中で思うのだ。そして、作者について調べてみて、自殺してしまっていると、やっぱり、やるせなくなる。「そっか、やっぱりそうなっちゃったか」と思う。