作家になれた?

 

 2020年5月。僕の個人史において劇的な変化が起こった。それは、「僕が自ら書いた文章が売れた」ということだ。

 

 5/29日現在、五冊が売れている。売上高は税込み550円。手元に入るのは136円。

 

 kindle direct publishingという、誰でも電子書籍を出版できるサービスを利用した。そこで僕は自分の書いた作品を一冊100円で売ることにした。それが設定できる限りで一番安い金額だったからだ。

 このサービスは、「どれくらい売れているのか」というのはもちろんのこと、「どのくらい読まれているのか」をレポートしてくれる。それを参考に既読ページ数を累積すると、なんと半分くらいは読んでもらえていることになる。

 

 嬉しい笑

 

 これまでもウェブで記事を書くアルバイトをしたり、個人塾内で使われる参考書の執筆に関わったりはしたので、文章によって収入を得たことはある。だけど、僕が、誰の命令でもなく自ら書き始めた文章でお金を稼いだのは初めてのことだ。

 

 これは、もしかして僕は「作家になれた」と言っていいのではないだろうか?なぜなら、誰がなんと言おうと「作家」は「自ら本を書き、それでお金を稼いでいる人」を指すからだ。金額の多寡は大して重要ではない。

 

 買ってくださった方々。ありがとうございます。

 

 いやー、ブログにkindleのリンクを貼りまくった甲斐がありましたね。え?金儲けが目的だって?

 

 そうかもしれないけれど、それだけが目的ではないよ。金儲けだけを目的に小説を書くわけないじゃん。もっと合理的な稼ぎ方があります。それでも小説を書くのは僕がどうしようもなく小説を好きだから、という非合理な動機に突き動かされているからです。

 

 え?136円稼いだくらいでイキるなって?

 

 いいじゃん、僕にとっては大事件なんだよ、今くらいはしゃがせてくださいな笑

 

小説家になれたわけではないんだよね

 

 ただ、僕の書いた小説が売れたと言っても、僕はそれを「小説」として売ったわけではない。あくまで「資料」として売っている。どのような資料なのかというと、「一次選考は通るが、二次選考で落ちる作品はこんな感じ」ということを表す資料だ。

 

 

 というわけで、いくら自分が書いた小説が売れたと言っても、それを小説として売ってはいない以上、僕はまだ「小説家」にはなれていない。

 このブログを初めておおよそ二ヶ月が経とうとしている。色々と試しながらやってみた結果、このブログは当初の予定通りの使い方をすることに決めた。

 当初の使い方、とは「文学賞に関すること」を書くことだ。

 

 この二ヶ月、僕が書いた記事の中で最も読まれたものは「群像新人賞に一次落選した話」であり、累積pv数のおよそ半分はこの記事だ。その理由はgoogleで”群像新人賞”と検索した際、1ページ目に表示されるからだろう。実際、検索から流れてくる人が多いようだ。(そして、そのほかの記事はそのままついでに見てもらうことで閲覧されている)

 そのほか、よく読まれる記事は軒並み「文学賞ネタ」か「東大ネタ」だ。当たり前だ。だって、そんな風なブログタイトルにしたんだもの。

 

 そういうわけで、小説や映画、楽曲などの感想はnoteの方に書いていくことにした。いくつかのブログや記事を参考にした。(一番参考になったのはミモザさんの記事だ。https://ameblo.jp/aimeruru-rock-kh/entry-12596576930.html

 目次にジャンプする機能があることと、比較的長い文章が許される場であること、などが理由としてあげられる。あとはシンプルな構成も気に入った。

 

 問題は日記について、だ。日記はまた、どのプラットホームを利用する方がいいのか考えていくことにする。

コンビニ人間』村田沙耶香 | 単行本 - 文藝春秋BOOKS

 

村田沙耶香著、『コンビニ人間』を読んだ。

芥川賞を獲っただけのことはあり、考えさせられる作品だ。

 

頭でっかちと呼ばれがちな人におすすめだ。

そうでなくても、漠然とした息苦しさを感じる人におすすめだ。

 

 この記事の前半は、これまで読んだことがない人に、この作品の魅力を伝えるために書く。

後半は、すでに読んでいる人向けに書く。ご自由に読み飛ばすなりしてください。

 

どんな話?

 さて、この話がどういう話なのか、僕なりにざっくりとまとめると、18年間、コンビニ店員として、「コンビニのマニュアル」で生きてきた主人公がふとした事から「ムラ社会のマニュアル」の存在に気付き、そちらを一度選択しようとするも、結局は「コンビニのマニュアル」を選択する、という話だ。

 特にラストのシーンについてだが、主人公はコンビニという透明な箱を見て、赤ちゃんが生まれてきた時に入れられる透明は箱を連想する。それは「私はコンビニ店員として生まれた」という言葉を回収する、この物語の大きなテーマなのだが、非常に興味深い。生まれた時から私たちは何かしらのマニュアルに従わなくてはならない、ということを暗示してもいる。

 

 これだけだとなんの事だろう?となる。

 

どんなマニュアルに従って生きるか?

 

 まず、マニュアルというものを、

「他者により、明確な正解が与えられている状態」

と定義する。

 そうすると、例えば受験勉強、ってのは明確なマニュアルだ。ちゃんとすべきことが分かっていて、あとはどれだけ従えるかだ。従うことができた人が東大に受かる。わかりやすい。

 コンビニも同じだ。コンビニ店員のマニュアルがあり、従っている人が優秀な店員だ。

 

 作者によれば、僕らの生きる社会にもマニュアルがある。明文化されていないため、主人公がそういうマニュアルの存在に気づいたのは36歳だった。そのマニュアルのことを、この物語に登場する白羽という男性は「縄文時代と変わらない、ムラの掟」と呼んだりする。

 

縄文時代から変わらない、ムラのマニュアル

 

 白羽によれば、この社会は縄文時代と何も変わらない。

 

 人間は、ある程度の年齢になれば「仕事」か「家庭」のどちらかでムラに貢献しなくてはならない。そして、そのどちらにも属さない個体は、機能不全を起こしているとして排除される。(現代社会にはそこに”治療”という選択肢がある)

 

 狩に行って獲物(現代社会ではお金)を獲得し、ムラに貢献する強い男性に魅力的な女性が群がり、そして、女性は子供を産み育てることでムラに貢献する。そうやって人間は増殖する。

 

 そんなマニュアルは今でも同じだ。

 

コンビニのマニュアル

 コンビニのマニュアルは「お客様に最高のサービスをお届けし、地域のお客様から愛され、選ばれるお店」を目指したものだ。ムラ社会にマニュアルとは異なる。

 主人公の女性は常にコンビニのマニュアルを携えて生きている。衣食住の全てがコンビニのマニュアルによっている、と言ってもいいかもしれない。

 

 そういうあり方をする主人公に、白羽は「恥ずかしくないのか」という一言を突きつける。主人公はコンビニのマニュアルで生きてきたため、ムラのマニュアルで見れば、機能不全だ。そもそも、主人公はそうしたムラのマニュアルの存在自体に気づいていない。

 「こんな歳までアルバイトしかしていない。おまけに子宮も使い物にならない」と白羽は言う。「あなたは仕事でも家庭でも、この社会に属せない」と言うわけだ。

 

 

 さて、主人公は、そうしたムラのマニュアルが存在することを知った上で、それでも、コンビニのマニュアルを選択して生きることにする。

 

 

 ここまでが、この作品を読んだことがない人のために書いた話だ。

 

 ここから先は、この作品を読んだことのある人に向けて書く。

 

 

 僕なりの感想を書く。

 

僕なりの感想(既読者向け)

 まず、大きな違和感を感じたのだが、それは、こういう作品が存在することそのものへの違和感だ。主人公の女性はまるで機械のような存在として描かれている。であれば、そこに悩みなど生じないはずなのだ。機能不全?知ったことではない。障害?あったら排除するまでだ。

 しかし、この物語は小説になっている。主人公にも感情があるからだ。その感情はどこからくるのか。それを見極めながら読むと面白い。結局のところ、血縁淘汰説に行き着くからだ。

 

 主人公は家族を喜ばせたい、と思って生きている。これが血縁淘汰説だ。この話は詳細版の感想文に載せるとしよう。小鳥の死体を持って帰って食べ物にしようと提案した時も、スコップで人を殴り、家族が謝らされている時も、妹と話している時も。全ての場合で、主人公は家族を悲しませるのは「本意ではない」ので悲しませない選択をする、としている。ここで「本意」とか「不本意」という言葉をワンクッション挟んで、直接的に感情を書き出さないという表現形態は、結構面白いと思った。

 主人公は共感性を完全に失った機械ではない。なぜなら、共感性が完全に欠落していれば、そもそもポジティブな表情とそうでない表情を見分けることすらできないはずだからだ。主人公の内側には、実は人間的な部分が折り畳まれて存在している。

 

 それゆえに、主人公は一度、妹を喜ばせるために、ムラのマニュアルを選択してみようとするわけだ。

 

 

 僕らがみな、マニュアルに従って生きているとしよう。僕らの大半はムラのマニュアルで生きている。その「ムラのマニュアル」というメインマニュアルの下部に、「コンビニのマニュアル」が存在する。学生時代はモラトリアムであり、バイトをしていればいい。バイトの中にコンビニがあり、コンビニ店員になればコンビニのマニュアルを選択する。制服を着た瞬間、僕はコンビニ店員のマニュアルをムラのマニュアル以上に優先させることになる。

 主人公の異常性は、コンビニのマニュアルをメインマニュアルとし、ムラのマニュアルをサブマニュアルとしている点だ。つまり、コンビニ店員として働くために生きているのだ。身嗜みを整えるのも、飯を食うのも、寝ることですらも、全てコンビニのためだ。そこに明確な異常性がある。

 

 コンビニ人間、というタイトルは奥深い。「人間じゃない」と否定された主人公は「だから、さっきからそう言ってるのに」と心の中で呟くのだが、それでもやはり、人間なのだ。

 

本当は小説の感想メインのブログにしたいんだよね

 

 ここには主に小説の(そしてたまに漫画や映画の)感想を載っけていきたいわけだけれど、なかなかうまくいかない。僕の変な”こだわり病”が発病してしまっているからだ。

 もっとちゃんと書かなきゃって思うあまり、一つも書き上げきれないっていう笑

 一体どこの誰が僕に完璧を求めているっていうのか。(僕自身ですら求めていないと思うんだけど笑)

 

 そういうわけで、ブログタイトルの「本棚」からは程遠いものになってしまった。

 

「なんだ、お前の本棚は、自分で書いた落書きでいっぱいじゃないか笑」って言われそう笑笑

 

これから小説の感想をアップしていきます

 それでも、準備ができていないわけではなくて、(一応、準備はしているんだよ^^;)以下、これから感想を載っけていこうかなって思っている作品のリストを挙げます。これから先、順次更新されていくかもしれないんだけど。

 

  • [日本人作家]
    • 中村文則
      • 「去年の冬、きみと別れ」
    • 村上春樹
      • 「ノルウェイの森」
      • 「1Q84」
    • 佐藤泰志
      • 「きみの鳥は歌える」
    • 片山恭一
      • 「世界の中心で、愛を叫ぶ」
    • 村田沙耶香
      • 「コンビニ人間」
    • 小川洋子
      • 「薬指の標本」
      • 「海」
      • 「刺繍する少女」
    • 新海誠
      • 「秒速5センチメートル」
      • 「雲の向こう、約束の場所」
    • 滝口悠生
      • 「死んでいないもの」
    • 村上龍
      • 「限りなく透明に近いブルー」
  • [外国人作家]
    • トルーマン・カポーティ
      • 「冷血」
      • 「ティファニーで朝食を」
      • 「クリスマスの思い出」
      • 「ダイヤモンドのギター」
    • スコット・フィッツジラルド
      • 「グレート・ギャッツビー」
    • J.Dサリンジャー
      • 「ライ麦畑で捕まえて」
      • 「大工よ、屋根の梁を高くあげよ」
      • 「フラニーとズーイ」
      • 「ナイン・ストーリーズ」
      • 「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」
    • ジョージ・オーウェル
      • 「1984年」
    • レイモンド・チャンドラー
      • 「ロング・グッドバイ」
    • L.キャロル
      • 「鏡の国のアリス」
    • トラビス・スラッシャー
      • 「Solitary」(日本語訳無し)
 
 とまあ、こんな感じになる。
 
おすすめの本があったら教えてください
 そして、このリストに自分のお気に入りが入っていないなって思った人がいたら、ぜひ、コメント等で教えていただけますとありがたいです。

 

 

 

「メールは嘘のハードルを下げた」

 

 間違ってはいないと思うのだけれど、これは物事の片面しか捉えていないように思う。

 確かにメールは嘘のハードルを下げた。僕もそう思う。しかし、一方で「本音のハードル」も下げたと思うからだ。

 

メールはコミュニケーションそのもののハードルを下げた

 

 ”メール”から始まった文字上の電子コミュニケーションは、コミュニケーションそのもののハードルを下げた。その結果、嘘もつきやすくなったし、本音もいいやすくなった。

 

 やがて、世の中には「本当っぽい嘘」と「嘘っぽい本当」が氾濫していく。そんな中、僕らは何を信じ、何を疑えばいいのだろう?

 

 なーんてことは、正直、僕にはどうでもいいことなのかもしれない。結局のところ、僕は自分が信じたいものだけを信じてしまうからだ。

 

 

電子コミュニケーションの世界の寂しさ

 

 ただ、電子コミュニケーションの繁茂した世界には、漠然とした寂しさがあるような気がする。金子光晴ではないが、寂しさの根元を、やはり、小説家志望としては見極めてみたいのだ。

 

 そうやって考えていくと、もしかしたら、これが寂しさの根元なのかもしれないって思えるものが見えてくる気がする。

 

 コミュニケーションのハードルが下がったことによって、右を向いても左を向いても、誰それの主張だらけ、という世界になった。

 

 そのことによって、分かり合えないことが分かりやすくなった。

 

 そのことが寂しい。そんな気がしている。この主張自体もまた、分かりにくいものであり、読んでくれた人に「分かり合えない」というため息をつかせてしまうのかもしれない。

 そう思うと、やっぱり寂しくなってしまう。

 

 

古い遠隔コミュニケーションの小話

 江戸時代のとある落語がある。文字の書けない女性が、封筒の中に石を入れて愛しい男に送るのだ。

 封筒を受け取った男は、中から転がり出た石ころを見て、「恋しい(小石)のか!」と感動し、涙を流す、というもの。

 

果たして、コミュニケーションのハードルが下がった今、このような意思伝達があり得るだろうか?

 

本当に情報過多?

 情報は「情」に「報いる」と書く。感情に訴えかける何かがなければ、それは情報と呼べるものではないのだ。

 

 情報が氾濫した現代は、逆説的に、情報が枯渇しているのかもしれない。そんなふうに時々思ってしまう。