「メールは嘘のハードルを下げた」

 

 間違ってはいないと思うのだけれど、これは物事の片面しか捉えていないように思う。

 確かにメールは嘘のハードルを下げた。僕もそう思う。しかし、一方で「本音のハードル」も下げたと思うからだ。

 

メールはコミュニケーションそのもののハードルを下げた

 

 ”メール”から始まった文字上の電子コミュニケーションは、コミュニケーションそのもののハードルを下げた。その結果、嘘もつきやすくなったし、本音もいいやすくなった。

 

 やがて、世の中には「本当っぽい嘘」と「嘘っぽい本当」が氾濫していく。そんな中、僕らは何を信じ、何を疑えばいいのだろう?

 

 なーんてことは、正直、僕にはどうでもいいことなのかもしれない。結局のところ、僕は自分が信じたいものだけを信じてしまうからだ。

 

 

電子コミュニケーションの世界の寂しさ

 

 ただ、電子コミュニケーションの繁茂した世界には、漠然とした寂しさがあるような気がする。金子光晴ではないが、寂しさの根元を、やはり、小説家志望としては見極めてみたいのだ。

 

 そうやって考えていくと、もしかしたら、これが寂しさの根元なのかもしれないって思えるものが見えてくる気がする。

 

 コミュニケーションのハードルが下がったことによって、右を向いても左を向いても、誰それの主張だらけ、という世界になった。

 

 そのことによって、分かり合えないことが分かりやすくなった。

 

 そのことが寂しい。そんな気がしている。この主張自体もまた、分かりにくいものであり、読んでくれた人に「分かり合えない」というため息をつかせてしまうのかもしれない。

 そう思うと、やっぱり寂しくなってしまう。

 

 

古い遠隔コミュニケーションの小話

 江戸時代のとある落語がある。文字の書けない女性が、封筒の中に石を入れて愛しい男に送るのだ。

 封筒を受け取った男は、中から転がり出た石ころを見て、「恋しい(小石)のか!」と感動し、涙を流す、というもの。

 

果たして、コミュニケーションのハードルが下がった今、このような意思伝達があり得るだろうか?

 

本当に情報過多?

 情報は「情」に「報いる」と書く。感情に訴えかける何かがなければ、それは情報と呼べるものではないのだ。

 

 情報が氾濫した現代は、逆説的に、情報が枯渇しているのかもしれない。そんなふうに時々思ってしまう。