皆様にご報告です🙏


7月14日(金)午後3時11分、師僧・福惠善高大和尚 遷化の報がありました。


世寿65歳。


延暦寺一山雙厳院住職であった師僧とご縁をいただいたのは、天台宗の一隅を照らす運動がきっかけでした。

当時、師匠は天台宗一隅を照らす運動の総本部長として全国に法の灯を伝えられ、私も一隅広報大使として活動するなかで、師弟のご縁をいただきました。


これまで、本山住職として


比叡山延暦寺副執行教化部長

延暦寺会館館長

天台宗一隅を照らす運動総本部長

比叡山行院院長

横川中堂輪番

社会福祉法人和光会監事

生源寺導師


…と、大変な役割を担ってこられ、法務ご多忙の日々でした。


全国どこのお寺へ行っても


「ああ!団姫さんは福惠さんのお弟子さんでしたか!」


と、沢山のお坊さんに喜んで受け入れていただいたのは、師匠からいただいたご縁だと感謝しています。


写真は、息子が生まれたとき、抱っこしてくださった師匠🙏



師匠は3年前から闘病生活に入られましたが、病床にあっても、法華経の解説や僧侶向けの密教解説に取り組まれました。


「自分の置かれた場所で仏道を実践する」ー法華経の行者としての生き方を学びました。



この3年間はコロナ禍ということで、私の中にはいつもためらいがありました。

お見舞いに行きたくても、感染リスクの高い仕事をしている私は、師匠にコロナをうつしてしまう可能性が常に付き纏っていました。


そのため、道心寺を建てるにあたり許可の判をいただかねばならないとき、そして、私の父の死が迫り、葬儀の仕方を伝授していただくときなど、本当に、どうしてものときにだけ、最大の感染対策をして伺いました。

その他にも、よっぽどのことでなければ治療中の師匠の命に関わることなので、お見舞いのタイミングをいつも見計らっていました。


いつどうなるか分からない、そして、いつ師匠から呼び出していただいても良いように、自分で参加を選択できる落語会の打ち上げは全て断ってきました。とにかく感染リスクをできるだけ負わないようにしました。



今年5月のことです。

その日はロケで滋賀へ行っていましたが、夜は落語会だったためロケを途中で抜けさせてもらい、山科駅で電車の乗り換え待ちをしていました。

すると後ろからトントン、と肩を叩かれました。

そこには師匠のお姿がありました。


ビックリしていると、師匠も病院の帰りで乗り換えるところだといわれました。


私は、このような偶然はあるのかと、本当に本当に驚きました。そして、これが最期になるのではないかと胸がドキッとしました。

でも、そんなことを師匠に悟られてはいけません。明るく振る舞いながら、記念写真を撮りました。

合掌でお見送りすると、涙が止まりませんでした。


それから2週間後、入院中の師匠から伝えたいことがあると連絡がありました。

私は、すぐに病院へ向かいました。


「山科駅での偶然は驚きました」と会話を始めると、実はあの日が、師匠が医師から様々な話しをされ、覚悟をされた日だったと教えていただきました。


師匠が覚悟をされたのだから、弟子である私も覚悟をしなければならない、と、また帰りの電車で泣きました。


師匠と最後にお会いしたときに、師匠から頼まれたことがあります。

私は弟子として、これまで何もお役に立てませんでしたが、師匠孝行をさせていただけるチャンスを授けてくださったと、感謝しています。

しっかりと務めます。


今回、覚悟していたとはいえ、師僧の訃報から、なぜか口が一文字のようになってしまい、言葉がでにくくなり、ここ3日間の滋賀、名古屋、神奈川での高座は、自分でもちょっと心配でした。

それでも、どこの高座もお客様が朗らかでよく笑ってくださるお客様だったため、とてもとても救われました。


師匠は本山住職であるため、葬儀はすべて延暦寺が執り行いました。

昨日はお通夜でしたが、私は遺弟代表としてご挨拶をさせていただきました。



師匠が遷化された7月14日という日は、貞観8年(866年)、最澄様が「伝教大師」という大師号を清和天皇から賜った日です。

これが、日本で初めての大師号だといわれています。


天台宗の宗歌は、最澄様が詠まれたものです。


明らけく 

後(のち)の仏の

御世(みよ)までも 

光りつたへよ 

法(のり)のともしび


師匠は、いつでも比叡のお山にいてくださる気がします。

感謝の気持ちを忘れずに、法の灯を伝えるため、精進いたします。