性暴力を受けたわたしは、今日もその後を生きています。』(梨の木舎)ー池田鮎美氏による衝撃のタイトルの本が出版されたのは、今年5月のことです。

すぐに読み始めましたが、胸が苦しくなることもあり、何度も立ち止まりながら、またページを開き…を繰り返し、先ほどやっと読み終えました。


この本では、著者の親友が受けた性暴力と自死、そして自身の学生時代、仕事中の性暴力について書かれていますが、私の言葉ではこの本の大切なことをお伝えしきれないと思うので、印象に残っている著者の言葉をいくつか挙げさせていただきます。


「(親友に加害した人間は)本当に強い人から強さを奪うために(中略)わざと性をからめた暴力をふるった」


「治療されるべきは被害者ではなく社会」


「(被害を受けたことによって社会生活が困難になってしまう)ギャップを埋める努力をすべきなのは被害者ではない」


「マイノリティという言葉にはふたつの意味がある。ひとつは数の少なさ、もうひとつは社会的力関係が劣後しているという意味」


「大人が子どもの性暴力に気がつかないのは、大人が大人の暴力に気づけていないから(中略)。自分が遭ってきた性暴力にも気づけていない。だから子どもの性暴力にも気づけない。」


「(被害に遭った人たちが大人や先輩に相談したとき)大人から伝授されるのは、(「そういうのをうまくあしらうことも、ビジネスマナー」などと)自分の痛みをみずからネグレクトする方法ばかり」


「(加害者は被害者を無視している、だからこそ)被害者「以外の」人の前で恥をかくこと(同意がない性行為をしてはいけないということを学ぶこと)でしか加害者は変わることができない」


著者は、この本をどれだけ大変な思いで書かれたのか、想像すると何度も涙がでてきました。

それでもこの本を書き上げられたのは、性暴力に関係のない人はいない、ひとりひとりが、社会全体が、法律が変わらなければいけない、ということを身を切り裂くほどの痛みを伴ってでも世間に伝えなければいけなかったからだと思います。



道心寺を開山して2年が経ちましたが、性暴力の相談の多さは想像以上です。

世の中にはこんなにも性暴力が多いのかと、その氷山の一角を知るだけでも、自分自身が力を失ってしまいそうなほどの怒りと悲しみがこみあげてきます。


それでも、相談に来られる方々は、本当はこんな経験などしたくはなかったけれど、その過去にさらに殺されないようにと、なんとか生きようとされています。


私は、その「殺され続けることは悔しい」という思いに、とことん向き合い続けたいと思います。なぜなら、私も性被害と無関係ではないからです。


なぜ性暴力によって被害者が傷を負わされ続けなければならないのだろうと思うと、本当に、著者の言うように、社会が変わらなければなりません。


被害を言いだせない人が多いだけで、被害がないわけではありません。日々いろんな場所で起こっています。


皆さんもどうか関心を持っていただき、この問題について考えていただけたらと思います🙏