東京オリンピックは、1964年と前回大会の2020年(コロナ禍で2021年に実施が延期)の2回行われています。地元で行われたオリンピックで、日本はいずれも過去最高の成績を収めています。1964年大会では、金メダル16個を含む計29個のメダルを獲得し、多くの競技で世界水準の競技レベルを実現しました。前回の2020年大会では、日本は過去最多の金27、銀14、銅17の計58個メダルを獲得しました。

ところが、競泳ニッポンは、地元で行われた両方の大会で惨敗しているのです。1964年大会では、男子800mリレーの銅メダル1個のみ。2020年大会では、大橋悠依の女子200メートル及び400メートル個人メドレーの金メダル2個と本多灯の男子200メートルバタフライで銀メダル1個のみでした。コロナ禍で実施が1年延期される不運もありましたが、期待値を大幅に下回ったものでした。

実は、これ以外に大活躍が期待されながら、競泳ニッポンはメダルゼロに終わった大会があリます。1996年のアトランタオリンピックです。アトランタ五輪の日本代表は、前年の世界ランキングが上位に位置するものがめじろ押しで、メダル量産が見込まれていました。オリンピックが近づくにつれ、新聞やテレビで特集など報道がされ、メダル獲得の期待が盛り上がりました。

林亨(バルセロナ、100m平泳ぎ4位)、山本貴司(アテネ、200mバタフライ銀)、千葉すず(1995年パンパシ、200m自由形優勝)、中村真衣(シドニー、100m背泳ぎ銀)、中尾美樹(シドニー、200m背泳ぎ銅)、青山綾里(1996年日本選手権、100mバタフライ優勝、世界記録に迫る)などが代表入りしており、私なども、期待に胸をふくらま見ていました。

しかし、結果はメダルゼロ、惨敗でした。日本水泳連盟は、メディアのバッシングに遭い、競泳ニッポンの立て直しを迫られました。この時、日本水泳連盟の会長だった古橋広之進が、競泳ニッポンの復活を託したのが上野広治でした。当時の上野は日大豊山高校に勤務する一介の高校教師に過ぎませんでした。

なぜ、古橋はメダリストを指導した実績のない上野に競泳ニッポンの復活を託したのでしょうか?

競泳の競技力向上には、チームとしての連携やサポートが重要です。また、選手たちの強化には、統一された指導や戦略に裏打ちされ、選手たちが一丸となって戦う体制が必須です。さらには、選手たちが本番のプレッシャーに対するメンタリティーが強くなくてはなりません。オリンピックのような大舞台では精神的な強さも求められます。

しかし、アトランタ五輪の競泳ニッポン代表は、個々バラバラでした。チーム力が欠如していました。逆説的な言い方をすれば、競泳は個人競技でありながら、チームとして戦うことで個々人の競技力が発揮されます。そういう意味で、極めて集団的なスポーツなのです。競技会でいい成績を残そうとすれば、非常に過酷な毎日の練習に耐えなければなりません。

しかし、この過酷な練習に、一人ではとても耐えていくことはできません。仲間と一緒に泳ぎ、競い合い、励ましあうことで、はじめて厳しい練習に耐えていくことができるのです。水の中は孤独です。仲間と泳ぐことで安心感も生まれ、競技力ばかりでなく、選手の精神力や人格までも含めた人間としての総合力が磨かれていくのです。

選手ばかりでなく、コーチ・スタッフを含むチームとしての連携やサポートがあって初めて強い個人が培われていきます。チームが一丸となっていればこそ、オリンピックという大きな舞台のプレッシャーに打ち勝って、自己のベストを出し切ることもできるのです。

競泳ニッポン代表チームのヘッドコーチに就任した上野がしたことは、競泳ニッポン代表をOne Teamに結束させることでした。アトランタ五輪での敗北は、各選手が自己ベストを出した結果での敗北ではなく、「力を出しきれない結果の敗北」でした。その敗因と考えられたのがチーム力の問題でした。選手間で支え合うこともなく、コーチと選手の間でも隙間風が吹いていました。

上野は、こういった状況を打開して、チームとして戦う態勢を創り上げました。そして、アトランタ惨敗後の、2000年のシドニーでは、銀メダル2個、銅メダル2個の総計4個のメダルを獲得しました。さらに2004年のアテネでは、金メダル3個、銀メダル1個、銅メダル4個と総計8個のメダルを獲得しました。北島康介と柴田亜衣が、アテネの空に、しかもセンターポールに、3本の日の丸をはためかせたのでした。

2012年のロンドンオリンピックの400mメドレーリレーで、キャプテンを務めた松田丈志は、「康介さんを手ぶらで帰すわけにはいかないぞ」と仲間を叱咤して、その種目で史上初の銀メダルを獲得しました。そして松田はインタビューの中で、「(選手、スタッフ)21人で取ったメダルです」という名言を残しています。この言葉の中にこそ上野が築き上げてきたものが結晶として現れています。プロの競泳コーチではなく、一介の高校教師だからこそ、なし得たものでした。

パリ・オリンピックの開催がちょうど3ヶ月後に迫りました。昨年、平井伯昌氏が競泳ニッポンのヘッドコーチを退き、日水連から不協和音が聞こえてきています。今ひとたび競泳ニッポンがチームとしての連帯を取り戻し、再びパリで活躍することを心より祈念しております。パリの空に日の丸を!