チャオチャオ~ 光の翼を持つ あたちの おともだちぃぃ~ (◕‿◡✿)

 

 

 

 

 

 

 

 

不思議なもんやなぁ

越し方に 何度も目にして来たはずやけど

いまここ とても響くことに びっくりぽん !

( ꈍᴗꈍ ) おほほほっ

 

 

やっぱり重なるんや

大好きな詩  谷川俊太郎氏の詩  「 黄金の魚 」 

 

 

・・・・・・・

いのちは いのちを いけにえとして

ひかりかがやく

しあわせは ふしあわせを やしないとして

はなひらく

どんなよろこびのふかいうみにも

ひとつぶのなみだが

とけていないということはない

・・・・・・・

 


いまここ いたみを抱え 悲しみの海にただよう おともだちぃぃ~

いまここ 夜 布団をかぶって 悲しみの嗚咽をくいしばる おともだちぃぃ~

ありがとうございます

その悲しみにあるあなたは 稀なる花そのもの

それを観ずることができたらええなぁと願います

 

あなたのイノチの 深まりを増してくださっとること

ありがとうごさいます

 

それは いずれ 光耀くイノチの発露となりましょう

それは いずれ 喜びと感謝のイノチ爛漫となりましょう

 

 

 

 

 

OSHO

 

至福だけの生には 広がりはあるが深みがない

悲しみだけの生には 深みはあるが広がりがない

悲しみと至福の両方がある生は 多次元的だ

 

 

 

惨めさについてさえ あなたは喜び祝うことができる

たとえば あなたが悲しいとき 悲しみに同化してはいけない

観照者になり その悲しみの瞬間を楽しみなさい

というのも 悲しみには独特の美しさがあるからだ

 

あなたは 一度も見守ったことがない

あなたは 完全に同化してしまうので

悲しみの瞬間の美しさに決して入っていかない

見守ったら 自分がどんな宝物を見逃していたか 驚くだろう

 

見なさい = 幸福なとき あなたは決して悲しいときのように深くない

悲しみには深みがある

幸福には浅薄さがつきまとう

幸せな人たちのところへ行って見てみるといい

いわゆる幸せな人たち 遊び人の男女 クラブやホテルで見かける人たち

劇場や映画館など そういった人たちは いつも笑っていて幸せに湧き立っている

彼らはいつ見ても薄っぺらで 上辺だけであることに あなたは氣がつく

彼らには深みというものがない

幸福は表面にしかない波のようだ

 

あなたは上辺だけの人生をすごす

だが 悲しみには深みがある

あなたが悲しいとき それは上辺だけの波ではなくて

まるで 太平洋の深海のようだ

何千メートルもの深みがある

その深みに入っていって それを見守ってみるといい

 

幸せは騒がしいものだ

悲しみには静けさがある

幸せが昼のようだとしたら 悲しみは夜のようだ

幸せが光のようだとしたら 悲しみは暗闇のようだ

 

光は来ては去る

暗闇はとどまる

それは永遠だ

光がたまに生じる

暗闇は常にそこにある

 

あなたが悲しみのなかへ入っていくと

このすべてのことが感じられる

突然 あなたは悲しみが対象としてそこにあって

自分が見守り観照していることに氣がつき

そして 突如として あなたは幸せを感じはじめる

 

こんなに美しい悲しみ !

それは暗闇の花 永遠の深みの花だ

底なしの深淵のように とても静かで とても音楽的だ

いっさいの雑音がなく 妨げるものはない

人は無限に そのなかへ落ちていくことができるし

すっかりみずみずしくなって そこから出てくることができる

それは休息だ

 

それは態度しだいだ

悲しくなると あなたは自分によくないことが起こったと思う

自分によくないことが起こったというのは解釈なのだが

あなたはそこから逃げ出そうとしている

あなたは決してそれに瞑想しない

そのようなとき あなたは誰かのところへ行こうとする

パーティーへ クラブへ あるいはテレビやラジオをつけたり

新聞を読みはじめたり とにかく忘れようとして何かをする

このような間違った態度

悲しみはよくないという態度が あなたに教え込まれてきた

それは なにひとつ悪いものではない

それは 生のもうひとつの極だ

幸福は一方の極であり 悲しみはもう一方の極だ

 

至福はひとつの極であって 惨めさはもうひとつの極だ

生は その両方から成り立っている

そして生には この二つゆえに規則性がある

至福だけの生には 広がりはあるが深みがない

悲しみだけの生には 深みはあるが広がりがない

悲しみと至福の両方がある生は多次元的だ

それは いっぺんに すべての次元のなかを動いていく

 

 

仏像を眺めるか またはわたしの目の中を覗きこんだら

あなたは その両方をいっぺんに見出すだろう

 

至福 安らぎ そして悲しみもまた

あなたは そのなかに悲しみをも含んだ至福を見いだすだろう

なぜなら その悲しみが至福に深みをもたらすからだ

 

仏像を眺めてみるといい

至福に満ちているが 悲しげでもある

 

この「悲しさ」という言葉が あなたに間違った意味を連想させる

何かがよくないという

これは あなたの解釈なのだ

わたしにとっては 全体としての生が好ましいものだ

そして全体としての生を理解して初めて あなたは祝うことができる

そうでないと祝えない

 

祝祭とは 何が起ころうと関係ない

 

とにかく わたしは祝うという態度だ

祝祭は 何かの条件に依存しない

「幸せだったら わたしは祝う」とか

「不幸せなら わたしは祝わない 」とか

祝祭は 無条件であり わたしは生を祝う

生は不幸せをもたらすが それでいい

わたしは生を祝う

生は幸せをもたらすが それでいい

わたしは生を祝う

祝祭は わたしの態度であり 生がもたらす条件には依存しない

 

だが わたしが言葉を使うために

それらの言葉が あなたの心に連想を生じさせ問題が起こってくる

 

わたしが 「祝いなさい」と云うと

あなたは幸福にならないといけないと考える

悲しいのに どうして祝うことができるだろうか と

 

わたしは 祝うために幸福にならないといけないとは云っていない

祝祭とは なんであれ 生があなたへもたらすものに感謝することだ

神が あなたに何を与えるとしても 祝祭とは感謝の氣持ちだ

それはありがたいと思うことだ