中国南部の長江流域では、

1万5千年前から1万4千年前頃の遺跡が見つかっており、

長江文明と呼ばれています。

これは北方の黄河文明よりもはるかに古い文明です。縄文土器を使い、

また約8千年前のカヌーが発見されていて、

船を移動手段として使っていたことも分かっています。


その末裔と考えられる少数民族が中国の西南部、

ベトナムやラオス、ミャンマーと境を接する雲南省にいて、

 

高床式建物、お歯黒、神話、歌垣(若い男女が求愛の歌謡を歌う集まり)、

納豆、げた、畳、仮面、鮒(ふな)すし、赤飯など、

日本と多くの文化的共通点を持っています。


北の黄河流域で、実在が確認されている最古の王朝は殷(いん)で

3500年ほど前から約500年続いたとされています。

「殷」とは、次代の周王朝がつけた蔑称(さげすむ名)で、

本来の国名は「商」でした。
 

商の人々はもともと東海海岸諸民族の一支族とされ、

古くは東方にあって「夷」と称していました。

土着の中国人ではなく、東方からやってきた異民族だったのです。

夷系の種族は多く、後漢書東夷伝には九つの種族が記されています。

その中の一つが、商を打ち立てたのです。
中国大陸の東海岸に、縄文人たちと同じ民族集団がいたとしても、

彼らの高度な航海術を考えれば、何の不思議もありません。
商の時代の遺跡から出土する古代文字を「甲骨(こうこつ)文字」といいます。

亀の甲羅や牛の肩甲骨に刻みつけた、漢字の原初の形態です。

古代漢字研究の第一人者、白川静・立命館大学名誉教授は、

「商王朝の成立には、日本の古代王権の成立事情と極めて相似た傾向が認められる」と指摘されています。


その「似た傾向」として、天地創生(天地開闢)以来の神話をもち、

その神々の子孫として王統譜(王の系統)が構成されていること、

子安貝や玉器を霊的なものとして珍重すること。

そして文身(いれずみ)の習俗ががあることを述べられ

「よその国とは思えないほどよく似ている」とまで言われています。[澤田、p159]


よく似ているのは、同じ文化を持つ同じ民族だったから、

と考えるのが合理的でしょう。

こうして見ると、縄文人たちは揚子江沿いには古代文明を築き、

黄河沿いでは商王朝を開いて、中国史に足跡を残しています。


私は常々、『論語』や老荘思想などの古代中国の精神文化には、

日本人にとって極めて親しみやすい、相性の良さを感じるのに

時代が下るにしたがって理屈っぽい朱子学や皇帝独裁など異質になっていく、と

感じていました。

 

それも、古代中国の文明にはもともと縄文人たちが深く関与していた、

と考えると、その理由が納得できるような気がします。