梅田和子さん(91)。
終戦の年の1945年2月ごろ、疎開先近くの茨木高等女学校に転校しました。
学校は兵隊の食料工場になっていて、
梅田さんはチョコレートを紙に包む作業を命じられたといいます。
そのチョコを上級生から命令されて食べた日が忘れられません。
(梅田和子さん)
「(チョコを)食べた瞬間にカーッときましたね。ちょっとおかしい、
普通のチョコレートじゃないなとわかりました。
チョコレート(を食べたら)クラっとしたと(父に)言ったら、
父は『ヒロポン(覚醒剤)でも入っているんだろうな』と」
チョコレートにヒロポン(覚醒剤)が入っていたというのです。
(梅田和子さん)
「(先生からは)『軍隊へ兵隊さんに贈るんだ』と言われましたね。
上級生は『特攻隊員が死ぬ前に食べていくんだよ』と言われましたね。
だから大事なチョコレートだって」
特攻隊員の最後の食事だったという覚醒剤チョコ。
どんなものだったのでしょうか。梅田さんに絵を描いていただきました。
(梅田和子さん)
「これがチョコレートです。菊の御紋が押してあるんですよ。
『天皇からの贈り物』だと」
チョコレートは長さ15cmほどの円柱で、
天皇の象徴である菊の紋章が入っていたといいます。
ただ、この学校で覚醒剤チョコが作られていたという記録は残っていませんでした。
特攻隊員に覚醒剤を注射していた元軍医『本当にかわいそうで仕方ない』
その答えを知る人が新潟県にいました。
蒲原宏さん(98)は、1945年、
多くの特攻隊員が飛び立った鹿児島県にある海軍の航空基地で軍医をしていました。そこで「出撃前の特攻隊員に覚醒剤を注射していた」と証言します。
(蒲原宏さん) 「
僕は初めはヒロポンとは知らなかったわけですよ。
黒いケースに10本アンプルが入っていて、説明書にはただ『筋肉内注射しろ』と。『出発前にやれ』という命令だけでよくわからなかった」
上官の命令で約300人の特攻隊員に覚醒剤とは知らずに注射をしていたといいます。その目的は…
(蒲原宏さん)
「眠らないためということが主目的でしたね。
戦闘力というか興奮させるといいますかね、
そういうものを増進させることが目的だったようですね」
鹿児島の基地から戦場の沖縄までは戦闘機で3時間ほどの距離があり、
夜間の出撃で眠ってしまわないようにする狙いがあったといいます。
注射された特攻隊員の多くは平静を保ったまま出撃しましたが、中には…
(蒲原宏さん)
「真ん中あたりに指揮官が乗るわけですよ。
それが日本刀を振り回して滑走路を飛んで行くのを見たことがあったが、
今考えると(覚醒剤で)興奮したのかなと思うけど、わからないですね」
特攻隊員に覚醒剤を注射したことを後悔していると話す蒲原宏さん
一方で蒲原さんは今も特攻隊員に注射したことを後悔しています。
(蒲原宏さん)
「本当にね、ヒロポンを打たれて死んだ人に対しては申し訳ないと思いますよ。
内心忸怩たるものはありますね。今でも時々夢を見ますよ。
どんな気持ちだったか、本当にかわいそうで仕方ないですよ」
悲劇の背後に隠された“不都合な真実”
特攻という悲劇の背後に隠された覚醒剤。
軍と覚醒剤について長年研究をしている相可文代さんは、
覚醒剤チョコの記録がほとんど残っていない理由を次のように指摘します。
(相可文代さん)
「戦後、覚醒剤のヒロポン禍と言われる、
いわば幅広く中毒者が出た事件があったんですよね。
(特攻で)純粋な気持ちで亡くなっていった若者たちが、
実は覚醒剤を摂取して出撃していたんだなんて、そんなことは絶対に認めたくないと、当然遺族はそう思いますよね。周りもそれには触れない。
軍の上層部もそんなものを与えていたとは知られたくない。
不都合な真実だと思いますね」
『戦争というのは自由を失う』
今は自由な生活を楽しむ梅田和子さん。
覚醒剤チョコについて「当時は反対できる状況になかった」といいます。
(梅田和子さん)
「何をしてもあのころは
(戦争に)協力しない生き方というのは見つけられないですね。
戦争というのは自由を失うんです。
一つの方向にみんなそっちを向かないといけないという、この怖さがありますね。
一人一人みんな大事な命を持っていることをもっと認識されないと」
軍の無謀な作戦により尊い命が犠牲となった特攻。
その裏にある“不都合な真実”も語り継いでいく必要があるのではないでしょうか。
(2022年8月16日放送 MBSテレビ「よんチャンTV」内『特集』より)






