『 自由は肯定心が生み、束縛は否定心が生む。 』 | 逆境を突破させる詩集

『 自由は肯定心が生み、束縛は否定心が生む。 』


人は、
心の中の自分に、「 よし! 」 と許可されたことしか、
話せないのである、行動できないのである。

たとえば、
誰かに、何か、面白いことを話してウケようとした時に、
考えすぎて何も話せなくなるというのは、
心の中の自分が自分に対して、
「 それはダメ! 」 「 それもダメ!」 と、
話そうとした内容を次々にダメ出ししてきたからなのである。

心の中の自分に、「 その話なら面白い! 」 と許可されなかったから、
口から出ないように制御されたのです。

心の中の自分に、「 その話はスベる! 」 と言われたから、
話すことに拘束をかけられたのです。


では、
その、「 よし! 」 の許可と、「 ダメ! 」 制御の規定は、
自分の内部でどのように発生するのかというと、
結局、
自分が他人の仕草・行動・言動をどのように見ているのか?思っているのか?
他人の行動や会話の内容を肯定的に見ていたのか?思っていたのか?
他人の行動や会話の内容を否定的に裁いていたのか?思っていたのか?
という心的感受態度から発生していたのです。

たとえば、
相手から、
どんな話の内容で話しかけられても自分は肯定的に受け入れられるという人は、
自分から発する話の内容の許可規定の範囲も広いので、
初対面の人に対しても、
「 なにを話したらいいのか分からない?? 」 という悶々感もなく、
普通に話しかけて会話することもできるのですが、

相手の話の内容に拘りすぎて、
天気の話なんかで、ベターにコミットしてくる人や、
「 調子はどうですか? 」 などと質問形式でコミットしてくる人なんかetcを、
「 ウザイな・ ・ 」 、 「 メンドクサイな・・ 」 などと否定的に思っていたりすると、
自分から発する話の内容の制御規定が多くなり、
仲のいい友達以外とは、
「 なにを話したらいいのか分からない?? 」 状態になって、
初対面や微妙な距離関係の人との会話を避けるようになったりもします。

「 なにを話したらいいのか分からない?? 」 状態というのは、
心の中で、自分が相手に化けて、会話のシュミレーションをし、
相手に化けた自分から、「 その話はダメ! 」 と次々に否定されるから、
「 なにを話したらいいのか分からない??」 状態になってしまうのです。

自分が相手に化けて、自分にダメ出ししてくると気づいている人は、
驚くほど、少ないのです。

この相手には、この話の内容は受け入れられないだろう?!と
自分なりに解釈してしまいますが、
相手が受け入れられないのではなく、
自分だったら受け入れられないということなのです。

自分が、相手から話しかけられる話の内容に拘りすぎていますのでね。

前者のように、
どんな話の内容で話しかけられても自分は肯定的に受け入れられるという人は、
つまらぬ会話シュミレーションによるダメ出し云々もなく、
なんでも抵抗感なく普通に話しかけることができてしまうのです。

この、ダメ出しによる自分からの拘束を修正するには、
相手の話がウザイと思っても、
「 ウザイ → 否定 → 自分の柔軟性を束縛する 」 と考えて、
前者のように、
どんな話の内容で話しかけられても自分は肯定的に受け入れよう!
と自分に言い聞かせて実践することなのです。

肯定することによって、
否定によって生じた束縛は解除されていくのです。


また、
これらを別にたとえば、
スギちゃんという芸人の、「 ~だぜぇ 」 をテレビで見たときに、
普通に面白いと思った人(肯定的に判定した人)は、
自分の口から、皆の前で、
「 ~だぜぇ 」 という言葉を発することを抵抗なく許可できたりもするが、

そのスギちゃんの、「 ~だぜぇ 」 をテレビで見たときに、
「 こんな、ちっとも面白くない 「 ~だぜぇ 」 なんて、
 笑いのレベルが低くすぎて真似して言う奴の気がしれんわ~!」
と、否定的に評価・判定した人は、
皆の前で、自分の口から、「 ~だぜぇ 」 なんて言葉を発することは、
愚恥すぎて、絶対的に、心の中の自分が許可しないのです。

もし、誰かに、スギちゃんの真似をして!とお願いされたとします。
しかし、
頑張って、スギちゃんの真似しようと意図しても、
「 ~だぜぇ 」 を口にすることに対して、
もの凄い抵抗感と拒絶的違和感を感じてしまって、
小声でモゾモゾと呟くくらいしかできなくなるのです。

いわゆる、
一般芸界的に、” 照れがある ” という態度になってしまうのです。


他者への否定心から生じた規定が、
潜在的な領域にまで染こんでいるので、
意図的にやろう頑張っても、
やっぱりなぜにか抵抗感を感じてできないのです。

とある規定意識(概念)が潜在的な領域にまで染こむと、
意識的に、じっくり分析して考えないと、
なかなか表面意識では、その正体の認知認識ができ難くなるのです。

ええ、とても厄介な心的状態になってしまうのです。

単なる他者への否定心が、
自分の心の潜在領域にまで作用影響してしまっているのです。

冷静に考えれば考えるほど、
否定心の扱いには細心の注意が必要ですともいえるのです。


ええ、スギちゃんのたとえに同じく、
明石家さんまの話調は肯定的に見ているが、
松本人志の話調に対しては否定的に見てしまってるという人もいます。
そのような人の場合だと、
さんまチックな会話サバキは、
心の中の自分から 「 これはイイ! 」 と許可がでるので、
自ら進んでに近く普通にさんま風な話方ができるのだが、
松本人志チックな会話サバキは、
心の中の自分から 「 その口調と話風はダメ! 」 と制御してくるので、
意図的に真似することさえ難しくなってしまうのです。


また、
キザでクサイことを言う人のことを、
品性のある紳士と肯定的に見ている人は、
一般的に、キザでクサイと思われるようなことも、
自分では紳士的と思っているので普通に抵抗なく言えるのですが、

キザでクサイことを言う人のことを否定的に見ている人は、
自分の口からキザなセリフがでることが気持ち悪いので、
口が裂けても、そのセリフの発言を、心の中の自分が許さないのです。


ええ、全般的に、

否定的な目で世の中を見ている人というのは、
自分の中に発生させたダメダメ規定に束縛されているゆえ、
なにかと話すことに抵抗を感じてしまう、口べたな人が多いと思います。

肯定的な目で世の中を見ている人というのは、
ダメダメ規定による束縛が少ないだけでなく、
「 よし!OK! 」 という許可規定がいっぱいあるので、
話すことにあまり抵抗を感じない、
自然で自由形なトークのできる人が多いとも思います。

自分以外の他者への否定は、自分自身への束縛を発生させます。

自分以外の他者への肯定は、
過去の否定心により自分に枷してしまっていた束縛からも解き放ち、
自分の中に、自由な思考が普通にできる柔軟心を育て上げてくれます。

肯定的な見方・判定・評価をすればするほど、自由な心が育ちます。

自分を自由にするのも、束縛をかけるのも、
要は、他者に対する自分の見方次第になるのです。


自分が理想とする人がいた場合、
嫉妬して否定にへとなびき易い流れを自制し、
意識的に、その人の仕草や行動や言葉を肯定していれば、
ジワジワと、自分も、その人のように成れてしまうのです。

これは、秘儀にも近い真実ですので、試す価値は大ありです。

成りたい人がいたら、強く肯定!

成りたくない人がいたら、強く否定!

たとえば、
犯罪を強く否定していれば、強い制御心が働きます。


<肯定をする上の注意>

極論的なたとえですが、

肯定の対象を間違い、
通常は否定の対象でもある泥棒のことを、
ルパンみたいだと思って尊敬肯定すると、
自分も、泥棒することに対して抵抗感がなくなってしまいますゆえ、
気をつける必要があります。

そのくらい、何かを肯定するという思いには、力があるのです。


<否定の注意>

積極的なる攻撃心にて他者を否定する場合も多々ありますが、
消極的なる防衛心にて他者を否定する場合もあります。

自分のことなんてほっといてほしいのに、なんで私に話しかけるのよ?(悶
自分は一人で生きたいから、私のことは気にかけないでほしい!(悶
という気持ちからも、他者への否定心が生じます。

その否定心は、当然、自分のなにかを束縛して自由を奪います。

否定心は忘れることはあっても、消えることはありません。

何十年経っても、
とあるシチュエーションに何かを感じると連想的に姿を現してきます。

否定心は、肯定心で塗り替えられないかぎり、
永遠にも近く、心の何処かで身を潜めています。

否定心を肯定心で塗り替える行為を、一般的に反省といいます。

否定される側の、悲しさ、切なさ、面白くなさ、etcを、
タイムリーに自分のことのように考えれば、
否定を肯定に塗り替えるのは、意外と難儀ではない。

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